9.1933夏・中 伝説

 準決勝の組み合わせは一つは平安中対松山中。そしてもう一つは明石中対中京商と発表された。夜明けから晴れ渡る天気の中、この一戦を見ずして中等野球を語れるかとばかり、観衆は甲子園球場へ詰めかけた。前夜からスタンド下に、毛布などを持ちこんで泊りこむファンだけでもものすごい数で、全国中等学校野球大会始って以来の大観衆となり、その数2万を超えたと言われている。中京商は亡き校長へのはなむけと前人未踏の三連覇に向けて。明石中は部を作り上げてきた竹山の集大成として。そして中京商・明石中を頂点まで押し上げた吉田と楠本にとっては、5年間の総決算となる一戦である。

 準決勝第一試合が平安中の勝利で終わった後、両チームのスターティングメンバ―が発表された。中京商の先発投手は吉田。明石中の先発投手は中田とアナウンスされた。先発、中田の知らせに観衆は驚いた。30春の初出場以来、楠本が甲子園で先発マウンドを譲ったことは一度もなく、明石中は間違いなく投手・楠本のチームである。その世紀の剛球投手楠本は3番ライトと発表されたのだ。観衆よりも驚き動揺したのは中京商ナインだった。選抜で敗れ、打倒楠本を目指していただけに、「こっちは楠本以外考えていなかった。練習では投手をプレートの前に立たせて、速球に照準を合わせていたぐらいだ。だかベンチで「ナカタ」ってだれだ?と思ったよ。まるで狐につままれた気分だった」と中京商の大野木は言う。卒業し、コーチをしていた桜井寅二も「ベンチは面食らった」と振り返っている
 一方明石中ナインは平然と受け止めていた。先述の通り楠本には脚気の兆しがあり、おまけに準々決勝の横浜商戦後は疲れがひどく、夜には口もきけず布団に潜り込むほど。二塁手の嘉藤は「選手に驚きはなかった。楠本さんの体調が悪かった。それに中田さんの調子が抜群に良かったからね。我々は大丈夫だと思っていた。」と話す。事実上の決勝戦ともいえる一戦に抜擢された中田は黙々と打者に向かう楠本と違い、気迫を前面に出すタイプで、抜擢にも臆することがなかった。「中京は不死身の吉田、明石は意外や楠本を右翼に退けて」とマスコミが報じるこの一戦は、バックスクリーンに大会史上最高の投手の一人である楠本がマウンドに上がらないことを示したまま、13時10分、プレイボールが宣告された。 

先発した中田

33夏準決勝 先発メンバー

明石中 中京商
8 山田 勝三郎 9 大野木 浜市
3 横内 明 5 福谷 正雄
9 楠本 保 1 吉田 正男
1 中田 武雄 6 杉浦 清
5 松下 3 田中 隆弘
4 嘉藤 栄吉 4 神谷 春雄
7 田口 重雄 7 岡田 篤治
2 福島 安治 2 野口 明
6 峯本 三一 8 鬼頭 数雄



 試合は初回、いきなり明石中のチャンスが訪れた。先頭の山田勝三郎が四球で出塁すると、併殺崩れが2回続き、二死一塁でランナーは楠本。ここで中京商の捕手野口が捕逸をしてしまい、楠本が一気に三塁へ。すると中京商バッテリーは4番の中田を敬遠して5番の松下勝負。このチャンスで松下はヒットを打てず二ゴロに倒れ初回の明石中は無得点で終わった。そのあとの明石中は吉田の前に3塁を踏ませてもらえず9回が終わって安打は峯本の1安打のみ。対する中京商は2回裏、田中の放った打球を三塁手松下がエラーし、一気に三塁へ。無死からチャンスを作る。しかし続く神谷・岡田・野口がそろって中田の前に屈し、無得点。そのまま中京商は8回まで中田から一人も安打を放つことができずに9回の裏を迎えた。すると先頭の吉田が三遊間に内野安打を放ち、中田のノーヒットノーランを終わらせると、続く4番杉浦の三塁前バントは松下から変わった永尾がボールをファンブルした上二塁へ暴投。これで一気に無死二三塁。ここで明石中バッテリーは続く田中を敬遠し満塁策。サヨナラのピンチである。ここで中田のコントロールが乱れ始め0ストライク2ボール。明石中ファンが敗戦を確信し、次々と席を立ち始めた。捕手の福島はたまりかねてマウンドへ行くと中田が「これじゃいかん、もう負けたね。」と言い、返す福島も「そうですね、負けでっせ。」と言い返すとそのまま戻ってしまう。そんな中投げた次の球が高めのぎりぎりの一球。どちらでもおかしくなかったが判定はストライク。福島は後年、あの球がボールになってたらあれまでだったと振り返っている。

 続く一球。中田の投げたカーブを神谷がとらえ強烈なライナーを放つ。二塁ランナーの杉浦はバットに当たるカーンという音を聞いてすぐにスタートを起こした。しかし、ふと三塁を見ると吉田がアウトと言われている。打球は中田が好捕し、そのまますぐに三塁へ投げていた。後に明石中の福島が中田に「あの球がよくとれましたね。」と言ったら「とったんじゃない、ボールを投げ終わったとたん、また自分のグラブに入ってきたんで、慌てて三塁に放ったんだ。」と答えたという。そんな運も味方につけた明石中バッテリーは、続く岡田も三ゴロに打ち取り、試合は延長戦に突入した。

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 得点 H E
明石中 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 4
中京商 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0


9回終了時点でのスコアボード
15回表打者楠本。捕手野口
明石中ベンチの様子
中京商ベンチの様子
延長17回表終了時。0のボードを抑える係員。

 10回、11回、12回、13回。試合はどちらのチームも点を取れぬまま進んでいった。先にチャンスをつかんだのは明石中。延長14回、永尾が内野安打で出塁。その後吉田が暴投し、二進。さらに続く嘉藤が四球を選んだ際に永尾が三盗に成功するがオーバーランしてしまい、結局三本間に挟まれてしまう。さらに15回。二死ながら9番の峰本、1番の山田にこの日初の連続ヒットが出て、続く横内が四球。満塁の場面で楠本に打席が回る。観客席が沸き立つが、吉田は動揺せず。楠本が低めには強いが高めには弱いという弱点を突いて、高め一辺倒。最後は2ストライク2ボールから高めの速球を投げ込み、楠本は三振に倒れた。2回続けての得点のチャンスだったが結局明石中は点を奪えぬまま、回は進んでいった。一方の中京商も中田の前に9回の吉田の内野安打以来、安打を放てないままでいた。当然、チャンスを作ることができず、次に安打を放てたのは実に延長17回。このころになると観客も疲労で声が出なくなり、甲子園は静まり返っていた。田中がセンター前に運び二死ながら一二塁。しかし中田が踏ん張り続く神谷が中飛。この回の0表示はとうとうスコアボードを超え、竹で大工が作った急ごしらえの枠にはめていくことになった。19回裏、杉浦のこの日8回目の打席が右飛に終わり、1926(大正15)年の静岡中対前橋中の延長19回を抜き、ついに大会史上最長の延長20回に突入した。20回ともなると審判団の中でももう終わらせてもよいのではという考えが出てきていた。球審であった水上義信はこのとき、「記録としては静岡中対前橋中を超えたことだし、いかに練習を積んだとはいえまだ中学生だし、雲一つない盛夏の炎天下にこれ以上はかわいそう」と審判委員長と相談をしていた。そこで両校へ試合中断を打診したが返答はともに「相手がやめるといわない限り、やめない。」結局、ルールに中止させるべき条件もないため、試合は続行となった。

 試合はついに3時間を超え、試合前にあまり食事をとらない明石中のナインは腹が減ってきていた。明石中は試合前にはおかゆをのみを食べるのが習慣であった。十分な食事をとるとどうしても動きが鈍くなるので、腹にたまらないおかゆが一番いいという竹山部長の判断からであった。しかし、当時としては想定外の3時間超え。試合中もやかんに入った砂糖水だけで食料は全くない。一方の中京商のベンチにはゲームの途中からレモンとジュースが運ばれ、吉田はベンチに帰るとレモンをしゃぶっている。「腹が減って。回を追うごとに目が回るようだった。ジュースを飲む中京商のベンチがうらやましかった。」とは明石中の峯本の談。

 そんな中でも試合は続く。そして延長21回表、明石中横内が先頭でライト前に安打を放った。11回表以来、久々の先頭打者安打である。しかも暴投も絡み一気に無死二塁。打席には3番の楠本。ここで明石中監督の高田勝生は定石通りに行ってもラチがあかないと、バントではなく、楠本に思い切って振り回せと命じた。楠本は張り切ってネクストバッターズサークルで素振りを始める。しかし、バット拾いに出ていた補欠の田口の顔に楠本の素振りしたバットが当たってしまった。田口は昏倒し、顔面は血まみれ。楠本の家は貧しく、田口の家は楠本の父親の主人筋にあたる家だった。「どうや、どうや」と田口に呼びかける楠本の顔色はみるみる変わっていき、声も上ずっている。この出来事で監督の高田の考えも変わり、「ていねいに遅れ、田口の傷はたいしたことがない。落ち着いて行け。」と結果定石通りバントをさせることにした。楠本は吉田の球をうまくバントし、三塁線へ転がしたが、フィールディングがうまい吉田は素早いダッシュでボールを拾い上げると、何の躊躇もなく三塁へ。ショートバウンドの送球とはなったものの三塁手の大野木がうまくさばきタッチアウト。無死二塁の大チャンスが一瞬にして一死一塁。続く4番中田の盗塁でなんとか二死二塁までは持って行けたものの、続く永尾が二ゴロ。明石中の勝機は霧のように消えてしまった。

 延長も20回を超えると両投手とも疲れが見え始め、球威が鈍り、ボールも多くなってきた。吉田は

「20回頃までは抑えてやるという気持ちだったが、それを過ぎると疲れから、投球は惰性になった。もう早く終わってほしいという気持ちだった。」

 中田も

「20回ぐらいまでは球も思うように投げられたがそれ以後は手がしびれて感覚がなくなり、勝ち負けよりも試合が終わってくれればよいと思った。」

 と両投手ともに同じような心情を後年語っている。このころ、楠本は中田の援護をしようと投球練習をはじめた。しかし監督の高田に「相手投手一人に対して二人がかりとは何事か」と止められたという。

 21回裏、野口のヒットと鬼頭の犠打。大野木の進塁打で二死三塁。続く福谷は三ゴロ。22回裏、杉浦がレフト前にヒットを放ち、その後盗塁。二塁手嘉藤が捕手の福島の送球を後逸している間に三塁を狙うがタッチアウト。23回裏、野口内野安打、鬼頭ライト前ヒット、大野木三ゴロ野戦で二死満塁も福谷三振。24回裏、吉田死球が出塁。このとき、吉田は出塁した際、「牽制球を投げるな。俺は走らん。余分なエネルギーを使っちゃだめだ。」と中田に向かって叫んだという。続く杉浦は犠打、田中遊ゴロで二死三塁。一打サヨナラのチャンスであったが神谷は遊ゴロ。吉田を打ち崩せず凡打の山を築く明石中。疲れた中田を責め立てるがぎりぎりのところで抑えこまれる中京商。

 一投一捕、興奮も、感激も、陶酔も、すべてを通り越した異様な緊張感が場内を漂う。ラジオ中継(JOAK・現NHK)の放送アナウンサー高野国本だけが、声をからしながら戦況をマイクに向けてしゃべり続けている。

「両軍の投手も選手も、クタクタになっています。が、最後の力、人間以上のエネルギーを搾って戦って居ります。アンパイアも2万の観衆も、場内はスッカリ精も根も尽き果ててヘトヘトになって居ります……」

 しかしその高野も疲れのせいか、回数表示のない急造のスコアボードの0の羅列を見ても

「多分、只今は23回の裏と存じますが……」

 と回数を読み取ることができなかった。

 甲子園は一塁側スタンドの鉄傘の影が長く尾を引いて三塁ベースまで黒々と届くほど、夏の日が沈みかけていた。延長の最長記録である第4回日本選抜中等学校野球大会(春の選抜とは別の大会、1929年夏藤井寺球場で開催)の決勝戦、松山商対和歌山中の21回をとうの昔に超え、イニングは25回に達していた。竹製のスコアボードもついに0のカードがなくなり、ペンキで書き足していた。25回に入る直前、大会本部はついに「勝負がつかなくても25回でで打ち切る」と両校に通達。主審の水上も「25回で終わらなかったら誰がなんと主張しようと引き分けを宣告しようと決心していた。」と語っている。

 夕暮れの中の延長25回表、明石中の攻撃は深瀬三振、福島一ゴロ、峰本二飛と3人で終わってしまった。

 そして最後の攻防となる25回裏が来た。勝ちのなくなった明石中の横内はやれやれという気持ちで守備位置へ向かった。中京商のメンバーは25回打ち切りという話を聞かされておらず、吉田はまだ何回でも投げるという気持ちで挑んでいた。

 中京商の先頭打者は20回から左翼の守備に就いている前田。中田は四球で歩かせてしまう。次の野口の送りバントは中田と三塁の永尾が譲り合ってしまい内野安打。無死一二塁。そして次の鬼頭のバントは中田が三塁へ送球するも間に合わず野選。無死満塁となった。

 「どうしてもゼロに抑えなければという気持ちからカンのよい中田さんが二つのバント処理をためらってピンチを招いた。私たちはプレートの中田さんのところに集まり、無死だからきっと打ってくるだろうとバックホームに備え中間守備よりやや前に守った。」

 二塁手の嘉藤の言葉である。更に嘉藤は打者の大野木(右打ち)がよく引っ張るので少し二塁よりに立った。今まで猛練習をしてきたはずなのに「さあ来い。」とは思わなかった。心の中で打球が来るな、来るなとひたすら思った。

 無死満塁と中京商に球運が大きく傾く。1番打者の大野木が大きく腹式呼吸をしながらバッターボックスに入った。1回から数えて実に91人目のバッターである。ベンチからは打てのサイン。大野木の脳裏には9回裏無死満塁の絶好機を逃した瞬間が浮かんだ。神谷が放った会心の一打は中田のグラブに収まり、そのまま三塁に投げてダブルプレー。三塁コーチだった大野木はその場面を目の当たりにしており、同じようにライナーを打つのではないかと弱気になっていた。

 明石中の中田はこの大ピンチにも動揺せずストライクを入れ2ストライク。ここで大野木がタイムをとる。バッターボックスをはずしてベンチを見ると何もサインが出ていない。不安が高まった。次打者の神谷のところへ行くと「9回のように併殺になってはいかんから俺は三振する。お前に後を頼む。」と三振することを伝えた。しかし、神谷は無言。返事が返ってこなかったので一転、「それなら、俺が決めてやろう」という気になった。大野木は開き直って思い切り振ることに集中してバットを短く持ってバッターボックスに入った。13時10分にプレイボールした試合はすでに5時間に達しようとしており、甲子園の大時計はついに18時を示した。夕闇に包まれる外野席はマッチを擦る薄明かりが蛍火のように見え始めている。スタンドは波を打ったように静かで観客は延長戦の行方をかたずをのんで見守っている。2ストライク1ボール。中田が最後の力を振り絞ってボールを投げる247球目、外角低めへカーブが落ちていった。



 外角低めにきたカーブを大野木はバットを投げ出すように振った。バットにボールが当たり、打球はやや鈍い音を立てて「大野木さんが左に引っ張る打法だったのでやや二塁ベースよりに守っていた」二塁手の嘉藤の予想は外れ、一二塁間に転がった。大野木は目もくれず全力疾走で一塁へ向かう。「こいつは間に合わんかもわからんぞ」と思いながら嘉藤が取りに行く。同時に一塁手の横内も打球に反応する。自分なのか横内なのか、一瞬のためらいに嘉藤の足の動きは少し鈍くなった。転がったボールは大きく2回バウンドして二塁手の嘉藤のグラブへ収まった。嘉藤の目に三塁ランナーの前田が本塁までの半分ほどの距離にいる姿が映った。嘉藤はボールをわしづかみ、ホームへ送球。タイミング的にはアウトだったが、送球はやや高く一塁にそれる。捕手の福島が懸命に飛び上がり何とかつかむと前田がヘッドスライディングで突っ込んできた。主審の水上の右手は上がらない。嘉藤は送球したままの姿勢で固まった。中腰だった水上の背筋が伸び、両手が大きく広がる。

「あっ。セーフ、ホームイン、ホームイン。ゲームセット、ゲームセット。6時3、6時4分。ついに延長25回、25回。1アルファ対0、1アルファ対0。」

 ゲームセットのサイレンの中、ラジオ実況の高野ががらがらの声で叫ぶ。一塁方向へ逸れた嘉藤の球を懸命に捕球した福島の足はホームベースから離れていた。この瞬間、観衆も、選手も、しばらくは呆然として立ちつくすより他なかった。やがてスタンドの一隅から、目が覚めた様に歓声が上ると、やがて全観衆が狂った様に、ただウオーウオーと叫んで帽子を投げる、座布団を放り出す。そんな嵐のような光景が甲子園に広がった。大野木は一塁へ到達した瞬間、背後から歓声の声が聞こえた。25回を投げ切った吉田は心身ともに疲れ果て「やれやれ」の心情。明石中の捕手福島は悔しがってボールをたたきつける。中田はマウンドに膝まづいた。一塁手の横内が中田に駆け寄り、肩に手をかけて慰めると気の強い中田の頬に涙が伝っていた。二塁手の嘉藤は崩れ落ち、膝がガクガクとして起き上がれない。4時間55分。延長25回の大熱戦は1対0。中京商のサヨナラ勝ちで幕を閉じた。明石の楠本か、楠本の明石かと謳われた「剛球」楠本はついにマウンドに上がることなく、最後の甲子園を去ることになった。
サヨナラの瞬間。走者前田、捕手福島、主審水上。
試合終了後の整列の様子。
試合終了後のスコアボード。


33夏準決勝 4時間55分 

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 得点 H E
明石中 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 8 7
中京商 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1x 1 7 0
明石中 打数 安打 中京商 打数 安打
8 山田 勝三郎 9 2 9 大野木 浜市 10 0
3 横内 明 8 2 5 福谷 正雄 9 0
9 楠本 保 9 0 1 吉田 正男 8 1
1 中田 武雄 7 0 6 杉浦 清 8 1
5 松下 1 0 3 田中 隆弘 8 1
-5 永尾 正己 7 1 4 神谷 春雄 10 0
4 嘉藤 栄吉 9 0 7 岡田 篤治 7 0
7 田口 重雄 3 0 -7 前田 利春 2 0
-7 深瀬 正 7 0 2 野口 明 9 3
2 福島 安治 10 0 8 鬼頭 数雄 8 1
6 峯本 三一 10 3
80 8 19 10 0 3 7 79 7 10 8 4 2 0
併殺4 残塁15 暴投=吉田 捕逸=野口 残塁18


 試合後、肩を落としてベンチに引き上げた嘉藤はナインに謝罪した。しかしチームメートは誰も責めなかった。監督の高田も「一生懸命やった結果やないか。誰も文句は言わん。仕方ないやないか。」部長の竹山は開口一番「お前はバカモノか!みんなで一生懸命やった結果だ。人間が一生懸命全うしたことをだれが責めるんだ。わしは満足している。頭を上げろ、胸を張れ!」
 主審の水上が敗戦投手となり、帽子を真深にかぶってマウンドを降りてくる中田に「どうだ疲れたか。」といったら、「20回以降は肩が棒のようでした。」と元気に笑って返してきたという。
 一塁手の横内は試合後「おかしなものだが、次の日も試合があると思っていた。ベンチに戻った後も「負けた」という実感は全くなかった」という不思議な感覚になっていた。
 球場の周囲には異様な数のファンが取り囲んでいた。春の選抜では負けたとたん「死んでしまえ」と言われ、ぼろくそだった。しかし今回は球場から旅館まで拍手で見送ってくれて、夜が更けるまで、宿舎の周りを立ち去らなかった。旅館では校長も、春には難しい顔だった後援会長も「よくやった」とほめたたえた。翌日、明石へ帰ると駅頭は市民でいっぱい。優勝チームを迎え入れるかのような盛大さで、選手たちを祝福した。



 飛田穂州はこの試合について以下のように書き残している。

二十有五回は本邦野球史上のレコードであるが、それよりも絶賛せねばならぬことは、この試合が吉田、中田の両投手によって最後まで行われたことであって、かくの如きは、恐らく日米野球界に前代未聞のことであろう。まことに、鉄腕以上というべく、勝敗の如何を問うの必要はない。何れも負けさせたくない試合であった。
 試合は投手力があまりに優秀であったため、打力それにともなわず、自然、得点することができなかった。安打、明石に八、中京に七、四球は吉田十、中田八という少数は、投手の異常さをうかがうにたるべく、絢爛たる投手戦であった。この歴史的試合を眺めて、ただ感嘆の声を放つのみ、多くを語りえない。喜びに浸ったファンとともに、心から選手に感謝したい。

 
 中京商対明石中戦で記録した延長25回は現在に至るまで破られておらず、空前絶後の大記録となった。吉田の投球数は336、中田は247で共に完投。サヨナラ打を放った大野木は実に11回打席に入った。中京商の補殺と刺殺の合計は実に107で失策なし。特に明石中のバントを再三阻止した吉田の守備には明石の選手は相当参ったようである。この堅い守りと、吉田の投球が中京商の勝利の原動力であった。この試合を讃え、試合の模様を放送したJOBK(大阪中央放送局)は、両校に対して盾を贈っている。

 試合時間の4時間55分については大会史に「汽車の旅より長い」と題し、以下のように紹介されている。
 昭和八年八月十九日、この日午後五時二十分着の特急「つばめ」で大阪駅に降りた旅人の一人、トランクを下げたまま、店頭のラジオに集って野球の実況放送を聞いている群衆にふと足をとめて「この試合は、やはりあの明石と中京の甲子園野球ですか」と聞いた。
 聞かれた男は「そうでんねん」と、つっけんどんに答えたものである。
 「へへえ・・・」と、仰山に驚いて「私は、名古屋のモンですがね、このゲームの放送を名古屋の家で一時間半ばかり聞いた後、心を残しながら二時三十五分発の”つばめ”に乗ったんですが、大阪まで車中三時間、いいかげんくたびれて着いてみると、まだ同じ試合の放送らしいので、トンと合点がいかず、こりゃ、てっきり、キツネにつままれたんじゃないかと思いましたよ」「・・・・・・」「あー、まだ零対零、すぐ甲子園に駆け付けたら、ホンモノの試合が見られますね」
 居合わせた連中も、これを聞いて目をパチクリ。
 そんな作り話のような実話があるほど、中京、明石の試合は長かったのだった。


8.1933夏・上 吉田の夏、楠本の夏

10.1933夏・下 完結

中京商・松山商・明石中の三つ巴

野球回廊

copyright (C) teto All Right Reserved