4.野球統制令

 3月28日、第9回選抜中等野球大会を二日後に控えたこの日、「野球ノ統制並施行ニ関スル件」が公布された。いわゆる野球統制令である。当時小学校野球ではボールメーカー、中等学校野球では新聞社電鉄会社などが全国大会を多数開催していた。(詳しくは野球百科事典様参照)それにより、休日はもとより、平日も試合が行われ、授業に差し支えることもあった。また、有望な小学生の引き抜き合戦もありこれらが問題とされた。先述の通り中京商は80以上の試合をこなしており、また、捕手の桜井や三塁手の吉岡は静岡の掛川出身。後に登場する松井栄造(岐阜商)は浜松出身で岐阜商時代は野球部後援会長の家に下宿して過ごした。
 野球統制令は試合を土曜日の午後と休日に限定。小学校は全国大会の禁止、中等学校は全国大会は選抜(春)と優勝野球大会(夏)、明治神宮大会の3つのみと限定。それ以外にも、留年選手の試合出場禁止、転入生は転向後1年間出場禁止等の決まりもできた。この野球統制令についての中京商吉田の証言である。

 当時は少年野球がさかんで、毎年一度宝塚で学童の全国大会が行われた。私は一宮第四小学校のエース、愛知商−慶大で活躍した春日井行雄君が一塁を守り、大正15(1926)年の全国大会では優勝した。夏休みを利用して大会も一週間ぐらいだし、同級生の親類の家に合宿したから、それほど問題になるようなことはなかったはずだ。一宮のほか静岡の掛川、二俣、京都の郁文、東京の戸塚、兵庫の飾磨などが強かった。
 中学校からの引き抜きなどもそれほど猛烈なものではなかった。中京商には掛川から吉岡―桜井のバッテリー、袋井から後藤などが来ていて、梅村校長の家に合宿したものだ。招待ゲームはたしかに多く、中京商は毎土曜、日曜は甲子園、寝屋川、神戸などに出かけたものだが、そんなに弊害になるようなものはなかったと思う。

3.1931夏 王者不在の夏

5.1932春 明石中・楠本の覚醒

中京商・松山商・明石中の三つ巴

野球回廊

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