職業野球連盟史

〜1935年
 1931年に読売新聞の正力松太郎が企画したアメリカ大リーグ選抜との試合においては、日本の出場選手は人気投票をもとに大学野球や社会人野球から選手を選抜した(その時のメンバーはこちら)。しかし1932年に野球統制令が発令されると、学生とプロとの試合が禁止されてしまったため、1934年に再び企画した日米野球では、学生を除いての選抜となった(その時のメンバーはこちら)。そのため沢村栄治やスタルヒンなど、中学校を中退して参加した者もいた。このときの全日本チームが母体となり、1934年12月26日、プロ球団である大日本東京野球倶楽部(現・巨人)が結成された。この時のチームメンバーは以下の通りである。
 総監督
 市岡忠男
 監督
 三宅大輔・浅沼誉夫
 投手
 沢村栄治・青柴憲一・スタルヒン・畑福俊英
 捕手
 久慈次郎(主将)・倉信雄
 内野手
 永沢富士雄・津田四郎・水原茂・苅田久徳・三原修・江口行男
 外野手
 二出川延明(副将)・矢島粂安・中島治康・堀尾文人・新富卯三郎・山本栄一郎・夫馬勇

 総監督の市岡が早稲田大学出身であったため、プロ契約第一号となった三原をはじめ、浅沼、中島、久慈、矢島、夫馬と、早稲田出身者が多く集まった。結成後、久慈は家業のため、三原と中島は入営のため、夫馬は学業のために離脱。新たに中山武、内堀保、田部武雄が加わった。
 このチームは、1935年2月から7月にかけてアメリカ遠征をおこない、75勝34敗1分けの成績を残した。その後、帰国すると青森から熊本まで全国で実業団と試合を行いながらプロチームの結成を呼び掛けた。すると、10月に大阪タイガースの創立事務所が開設。11月には名古屋金鯱軍が誕生し、年末までに島秀之助などが入団するなど各地で球団を作る機運が高まっていった。12月10日には正式に大阪タイガース(現・阪神)が結成。若林忠志や松木謙次郎などが創設メンバーとして名を連ねた。

1936年冬
 1936年に入っても結成が相次ぎ、1月15日に名古屋軍、1月17日に東京セネタース、1月23日には阪急軍、2月15日に大東京軍、2月28日に名古屋金鯱軍が正式結成と次々にチームが結成された(詳しい組織・役員等はこちら)。親会社で見ると、巨人・名古屋・名古屋金鯱・大東京が新聞社、阪神・阪急が電鉄である。また、巨人は財界の、セネタースは貴族院の、大東京は官界の関係者を役員に任命していた。最年長は巨人の山本栄一郎(1902年3月8日生まれ)、最年少は名古屋軍の鈴木実(1919年1月13日生まれ)だった。
 1月20日、巨人、タイガース、名古屋、セネタース、名古屋金鯱の5球団の代表が集まり日本職業野球連盟が結成。この後、阪急、大東京も加わり規約や試合日程などを審議した。
 2月9日、巨人の第2回アメリカ遠征の壮行試合として、名古屋の鳴海球場で名古屋金鯱との試合を行う。1923年の日本運動協会対天勝野球団以来のプロ同士の試合である。試合結果は10対3で名古屋金鯱の勝利であった。この試合はいずれもNHK名古屋にてラジオ放送された。他にも4月19日にタイガースとセネタースが甲子園で球団結成記念試合を行うなど各チームとも経験を積んでいった。
 順調に準備が進められていったが、職業野球というものに対して、世間では必ずしも好意的ではなかった。当時の野球評論家、飛田穂洲は「職業野球団の顔ぶれでは技術的に見物を吸収する力がない。忌憚なく言えば職業選手として、技術相当と思われるのは僅々数人にすぎまい。しかもこの数人が一団をなしているのではなく、一、二人ずつ分散加入しているというありさまであるから、それら団体の持つ力というものは気の利いた実業団野球にも及ばない程の微力といっていい。」と否定的に論じている。
 また、この公式戦が始まる前段階で、初の死者もでている。大東京軍の堀定一である。高松商出身で、25夏27夏には全国制覇を成し遂げている。卒業後は慶大に進学し31年の日米野球においても最多得票で選抜されている名外野手である。日米野球の後、入営した際に患った病を押して、大東京軍の練習に参加し続けた結果、肺炎となり、2月21日に死去。2月15日に大東京軍が結成されてわずか6日後のことであった。

1936年春
 4月29日、日本職業野球連盟結成記念リーグ戦が甲子園で始まった。アメリカ遠征中の巨人軍以外の6チームが5月5日までに各5試合を行い、優勝を争った。今日まで続く、個人、球団の通算記録はここから始まっているので、事実上、これが現在まで続くプロ野球のスタートである。初の公式戦は名古屋(現中日)対大東京。記念すべき第一球を投げたのは近藤久。打者は野村実であった。結果は8対5で名古屋の勝利。プロ野球記念すべき初勝利は名古屋軍、初敗戦は大東京についた。(その他の初記録はこちら
 このリーグ戦では、明大から中退して投手として入団した野口明との苅田久徳・中村信一の法政大コンビによる固い二遊間が魅力のセネタースと、投手の平川喜代美と全体として戦力が整っている名古屋金鯱が優勝候補として挙げられている。(選評はこちら)結果は名古屋金鯱以外の4チームに勝利したセネタースが4勝1敗で優勝。準優勝は3勝1敗1分の名古屋金鯱であった。セネタースは打率こそ、6チーム中4位だったものの、3勝を挙げた野口を苅田・中村が守備で支え、守りで勝ち切った。金鯱は最終戦で大会全敗中だった大東京に終盤追いつかれ、勝ちきれなかったのが痛かった。この大会では5月4日の藤井勇の史上初の本塁打(ランニング本塁打)をはじめとする多くの初が記録された。7日間の有料入場者は15試合で1万9164人であった。

 続いて5月16日、17日の二日間に鳴海球場で名古屋大会を、5月22日から24日にかけて宝塚球場で宝塚大会を開催した。この2つの大会には前述の巨人に加えて、上海・満州などの外地に遠征していた金鯱も不参加であった。それぞれ3試合、2試合と試合は少なかったがどちらも優勝は全勝したセネタースであった(宝塚大会は阪急と同率)。野口明、石原繁三、浅岡三郎の3投手がよく抑え、打線も両大会で打点数1位を記録し、安定感を見せていた。

1936年夏
 6月5日、巨人がアメリカ遠征から帰国。巨人では藤本定義が監督に就任し、前後して田部、水原が上層部と対立して退団している。
 7月1日に、戸塚球場にて連盟結成記念日本選手権大会が開かれた。初めて7球団すべてが参加する大会である。初日の第1試合は、巨人対名古屋。巨人にとって公式戦初試合となった試合である。結果は8対9で敗戦。沢村をはじめとする投手陣が名古屋打線を抑えることができなかった。
 この大会はトーナメント形式で行い、決勝は2試合連続二桁安打巨人、阪急を破った名古屋と、準決勝でタイガースから9回に3点を入れて逆転勝ちをしたセネタースとの戦いとなった。
 先発は名古屋が松浦、セネタースが野口。それぞれ3連勝中、6連勝中と未だ無敗のエース対決である。
 試合は両先発の投球が冴え、両守備陣もよく守り、点が入らない。4回表、そんな好ゲームの中で名古屋の4番高橋吉雄が野口から史上初となる2試合連続のホームランを放つ。野口はその後をよく抑えたが、松浦の投球がそれ以上によく、そのまま2安打無失点でタイガースの藤村、阪急の北井に続く、史上3人目の完封勝利を挙げ、名古屋が初優勝を果たした。1対0での勝利はこれ史上初であった。負けたセネタースは第1回リーグ戦、鳴海大会、宝塚大会と続いた連続優勝記録はここでストップしたのである。5日間計9試合行われたこの大会の有料入場者数は36934人。収入は16400円であった。また、この大会をNHKがラジオ放送している。

 7月11日、戸塚での東京大会決勝から4日後、場所を甲子園に移して大阪大会が開かれた。今大会もトーナメント形式で行われた。この大会では準決勝の阪急対名古屋の試合で、延長11回、山下実が先述の東京大会決勝で好投した松浦から史上初のサヨナラホームランを放っている。決勝に残ったのは先述のサヨナラホームランを含む2試合で3本塁打を放っている強力打線の阪急と、投打ともに絶好調が続くセネタースであった。この試合も東京大会決勝と同様、阪急の北井、セネタースの野口による投球がさえ、ロースコアでの接戦になった。試合は3回表、阪急の西村正夫が先制打を放つと、6回裏、野口が自ら同点打を放って追いつく。1対1のまま試合は進んでいったが9回表、山下実が野口から2試合連続となる決勝ホームランを打って勝ち越す。裏を北井が抑えて試合終了。阪急が初優勝を飾った。野口は2大会連続1球に泣いた。

 一日空けて7月15日からは場所を山本球場に移して名古屋大会が開かれた。山本球場は高校野球の第1回選抜大会が開かれた会場でもあるが、9試合中実に7試合で本塁打が出る手狭さが投手陣を悩ませた。1回選抜大会でも同様のことが起こり、一時期はこの大会で出た本塁打を公式記録から外していたほどであった。さらにグランドも状態があまりよくなく、イレギュラーがよく起きた。おまけに東京、大阪、名古屋と転戦が続き(当時は東京大阪間は最速で8時間20分)、チーム人数が少ない中での過密日程(一番投げたセネタースの野口は15日間で7試合50イニング近く)、そして猛暑も重なった。特にひどかったのは7月18日の準決勝である。当日は最高気温がこの年最高の37度に達し、タイガースの松木謙治郎は「この大会ほど暑さのひどかったことはない」との言葉を残している。実際に名古屋軍の岩田次男は日射病にかかり病院に担ぎ込まれ、セネタースの佐藤喜久雄に至っては、風邪から肺炎になり、脳炎まで併発して死亡している。佐藤はこの年の春の開幕戦から全試合出場をしており、東京大会からの夏季大会は18日の準決勝で第2打席で代打を出されるまでフルイニング出場であった。ちなみに佐藤がつけていた背番号16は球団が合併を経て消滅する43年まで誰も着用することはなかった。
 そんなすさまじい大会であったが、決勝はこの大会目指して猛練習に励み、準決勝ではセネタースを破ったタイガースと、2試合連続二桁得点で打線絶好調の阪急の対決となった。投手はともに3連投となる若林忠志と北井正雄。北井に至っては3日連続の登板である。
 この日も暑く、35.7度まで気温が上昇。試合は4回に北井を攻め立てて降板させたタイガースが、先発全員安打の猛攻で11対7で勝利し、初優勝を遂げた。阪急も野手全員安打で7得点を挙げたものの、若林にかわされてしまった。
 この地獄の名古屋大会の後、東京、大阪、名古屋の大会でそれぞれ優勝した名古屋、阪急、タイガースで優勝決定戦が行われる予定であったが、球場の確保ができず、初の日本選手権は預かりとなった。

 この春から夏にかけての一連の大会のおいて、最も目立ったチームはセネタースであった。春のリーグ戦から3大会優勝、夏の大会も2大会続けての準優勝とベスト4。この時期最も強かったチームといえよう。エース野口明が春夏季合わせて最多の8勝をあげ、石原、浅岡が脇を固める投手陣が強力で防御率はリーグ1位であった。また、苅田・中村の二遊間もよく、どちらもリーグ随一であった。打撃はそれほどでもなく春季は6チーム中4位。夏季は7チーム中6位と芳しくなくセネタースは守備のチームであったといえる。その結果、夏季には打力がよかった上位3チームに優勝を奪われてしまっている。
 一方悲惨だったのが巨人と大東京で、巨人は参加した3大会すべて初戦敗退で、勝ったのは敗者復活戦のみ。大東京は引き分けが1回あるだけの13連敗中で未だ初勝利を挙げられない無残な状態であった。
 選手で目立った活躍をしたのは、投手では先述の野口の他に、阪急の北井正雄で、野口の96.1回に次ぐ83回を投げて防御率1.95。5月1日に史上初の無四球完投勝利を挙げるなど、春夏季唯一無四球完投を達成している(3度)。成績はこの二人が図抜けており、あとは巨人が勝てずあまり投げられなかった沢村栄治の防御率2.12(投球回は17)、タイガースの若林が5勝を挙げているのが目立つ程度である。
 野手ではタイガースの小川年安が打率.477を記録。チーム打率が2位に7分近くの差をつけてぶっちぎりの1位だったタイガースの中でも特によく打ちOPSは実に1.157。2試合連続の決勝ホームランを打って大阪大会の優勝に貢献した山下実も4本塁打を打ち打率.391と活躍。OPSは1.144であった。(個人投手・打撃成績はこちら
 この後、8月30日にセネタース所有の上井草球場が完成。
 9月5日からは、巨人が群馬県館林の分福球場で、アメリカ遠征で天狗になっている選手の根性を叩き直すため、藤本定義による猛特訓を始めた。9月といえど暑さは去っておらず、群馬では連日30度を超え、7日には34度を記録している。特に反抗的だった投手陣を意図的に無視し、藤本が東鉄管理局時代から共に行動している前川八郎や伊藤健太郎、チーム最年少の白石敏男ら内野陣に黙々とノックの雨を降らせた。白石は草や石だらけでイレギュラーばかりする分福球場で、顔面にボールを受け血反吐を吐きながら夢遊病者のようにノックを受け続けた。負けてもヘラヘラと笑い、夜には宴会ばかりしていた選手たちは日に日に真剣に取り組むようになっていった。特に反抗的だった投手陣もノックをニヤニヤと眺めているだけだった初日から、最後には自ら練習に参加し汗を流したという。
 「巨人軍の伝統の基礎はあのとき築かれた」と藤本が後年語った、この伝説の「暁の千本ノック」は9月13日に終わった。その5日後、9月18日より、秋季リーグが開催されることになる。

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