4.黄金時代の幕開け

4.1 連続出場はするものの

 全国大会は毎年開催され、和中は毎年出場を続けていた。もちろん和中に実力があったからではあるだろうが、和中の参加する紀和大会は他の地区に比べ出場校が伸び悩んでいたことも出場できた一要因であろう。第一回大会では73だった出場校も、第6回大会では倍を超える157校にまで増えていたが、紀和地区の出場校は一向に増えなかった。第3回大会では奈良師範が予選に参加し、ようやく名実ともに紀和大会になったものの、参加校は5校。第4回大会は和歌山からの出場校は和歌山から和中と田辺中(予選直前に捕手が負傷し、和中はこの時不戦勝で県代表になった)。奈良からは奈良市版と郡山中のみの4校。第5回大会に至っては、とうとう和中と田辺中、奈良師範の3校のみと全国最少の予選地区だった。あまりの少なさに、当時弱小だった徳島県を交えた3県で予選を行うのではとの噂が立つほどだった。和中はこの間第4回大会予選決勝で田辺中に3対1と苦戦した以外は圧勝で大会に乗り込んだが、全国大会では一勝もできずにいた。第3回大会は中筋・小川錦など第1回大会出場メンバーが残っていたものの、打線が相手に完全に沈黙し、0対1で敗戦。第4回大会は第2回大会ベスト4に貢献したエース谷口が残っていたが、米騒動で中止。第5回大会では久々に得点を上げたものの、敗戦。運の悪いことにこの第5回大会まで全て優勝チームに惜敗であった。

 ちなみに第2〜3回大会では敗者復活戦が行われた。一回戦で敗退した6チームから抽選で4チームが選ばれ、勝ち抜いた1チームが準決勝に進出できた。和中は1回戦で京都一中に1安打完封で敗れたが、この敗者復活戦の抽選に当選。愛知一中と対戦となったが2安打完封で敗れた。この時同じく敗者復活戦に選ばれたものの、敗れた長崎中・香川商(高松商)などと共に大会史上5校しかない1大会2敗という珍記録を残している。

 また、第4回大会では予選が行われている直前、7月22日に富山の魚津で米の荷積みを主婦が妨害。当時米の消費量が増え、第一次大戦後の好景気に乗った成金が米穀商と手を組んで米の買い占めを行って米価が上がっていた。魚津を引き金に米を求めて全国各地で暴動が発生。いわゆる米騒動である。8月12日には当時の大会会場である鳴尾(西宮市)の近く、神戸で大規模な米騒動が発生。また、翌13日には大阪の堺でも発生し、大会主催者の朝日新聞は延期を決定。とりあえずはと13日に毎年恒例の茶話会は行われたものの、16日午前10時、各チームの監督・主将を朝日新聞社に呼び、上野精一副社長より中止が伝えられた。翌17日には新聞でも中止が伝えられ、13日から4日間分の滞在費をもらって各地区代表は帰ることとなった。

 当時の練習は猛烈の一言だったようで、一塁手として3番を打った柳進之助は「まず最初はキャッチボールで泣かされ、次にシートノックで泣かされた。基礎を徹底的に叩き込まれ泣いて帰った事もあった。」との言葉を残している。しかし、この猛烈な練習をしても頂点には届かなかった。

第3回大会紀和予選 第4回大会紀和予選 第5回大会紀和予選 第6回紀和予選
一回戦 和歌山予選 和歌山予選 和歌山予選
田辺中 8-7 耐久中 和歌山中 棄権 田辺中 和歌山中 14-4 田辺中 田辺中 6-2 高野山中
和歌山中 22-0 高野山中 和歌山中 12-0 田辺中
二回戦 奈良予選 第二次予選決勝 奈良予選
和歌山中 13-2 田辺中 郡山中 11-10 奈良師範 和歌山中 15-1 奈良師範 奈良師範 23-1 郡山中
決勝 二次予選 第二次予選
和歌山中 24-0 奈良師範 和歌山中 3-1 郡山中 和歌山中 26-0 奈良師範
第3回全国大会 第4回全国大会 第5回全国大会 第6回全国大会
一回戦 米騒動により中止 一回戦 一回戦
京都一中 1-0 和歌山中 神戸一中 3-1 和歌山中 京都一商 5-1 和歌山中
敗者復活戦
愛知一中 1-0 和歌山中
この年のオーダー(対京都一中戦) この年のオーダー(対郡山中戦) この年のオーダー(対神戸一中戦) この年のオーダー(対京都一商)
遊 中筋武久
二 神田豊
一 柳進之助(1988.07.13没)
投 谷口忠夫
左 紀俊嗣
右 北島好次
三 阪井有隣
捕 小川錦水
中 竹内惟康

補欠
橋本勝一
戸田廉吉
遊 北島好次
左 戸田廉吉
投 谷口忠夫
捕 柳進之助
三 阪井有隣
中 竹内惟康
右 橋元
一 橋本勝一
二 稲田(亮?)

補欠
不明
遊 北島好次
二 神田豊
左 戸田廉吉(投手兼任)
中 竹内惟康
一 真野五郎
投 橋元
捕 橋本勝一
三 井口新次郎(1985.09.24没)
右 浜中慎一

補欠
武井健二
柳純一
捕 橋本勝一
左 戸田廉吉
投 北島好次
遊 井口新次郎
一 深見顕吉
中 武井健二
三 田嶋豊次郎
右 浜中慎一
二 柳純一

補欠
高木秀雄
本庄種次郎


4.2 北島主将

 第6回大会。和中は中止になった第4回大会も合わせると実に6大会連続の出場となった。 初戦の相手は京都一商。先発は1年生からレギュラーの4年生北島好次。この年のエースは同級生の戸田であったが、予選前に肩を壊してしまったため、急遽、肩の良い北島が抜擢された。試合が始まると北島の球は高めに浮き四球を連発。リリーフした戸田と合わせて実に10個もの四球を出し5失点。予選に試合で2試合38点を稼いだ打線もわずか1得点。和中は3大会連続での初戦敗退で終わった。これで京都勢には3連敗である。
5年生の引退後、北島は主将に就任し、大会敗戦後翌日から炎天下の中練習を開始した。当時は常任の監督がおらず、主将である北島が中心となって練習を行った。朝10時から夜7時半まで、間に2時間の休みを挟んで約7時間。毎日毎日ひたすら練習をした。北島は毎日1時間半の投球練習(10分間に30球を投げたという)。終わるとシートバッティングで一学年下の井口新次郎と交互に投げ、そしてそれが終わると外野ノック。自宅近くの土手に円を描いて、休むこと無く投げ続け、課題である制球を鍛えた。他の選手も奥山・柳両コーチに徹底的にしごかれた。奥山は内野ノックを担当していたが、1日一人に焦点を絞ってしごき、一人に対し1日120〜130のノックを行った。
また、ベースランニングでは、盗塁のスタートの切り方、野手の捕球の位置、相手選手の行動によるスライディングの方法の決定、投手が投げてから捕手が二塁へ送球するまでの時間を図り、それに間に合うように研究や工夫をこらす等々、練習はすべて計算ずくめで行った。
 遊撃手のレギュラーで二番手投手だった井口は特にしごかれ、ピッチングをしたあと、バッティング投手。そのあと日没までひたすら遊撃手の守備練習と他の選手の倍以上の練習をしたという。練習は息をもつかせぬ猛練習となり、井口や副将の戸田も泣いて帰るほどであったが、北島の人格と熱意に惹かれ、来る日も来る日も汗と泥にまみれて練習を続けた。また、毎日支局長の安井という和中びいきの人がセミプロの大毎や早慶大、アメリカやハワイのチームなど多くのチームとの試合を組んでくれた。OBたちも休暇があるごとに帰省し、奥山や柳などが練習相手を務めた。和中の校庭で行われるこれらの試合を見て市民も野球に熱心になっていった。



4.3 第7回全国中等学校優勝野球大会

 毎年のように優勝候補と言われながら、頂点に届かない和中の当時の評は「投手力は良いが打撃が今ひとつ」であった。それが1921(大正10)年の第7回大会の予選が始まる頃には打撃のチームに生まれ変わっていた。副将の戸田は出塁率の高い左打者に成長した。井口、深見、武井ら昨年度からのレギュラー組も打率が3割を超えた。田嶋・柳純一・高木ら下級生も士気が高い。エースの北島は制球力が高まり、アメリカの本を読んで独特のドロップを編み出した。このドロップは非常に有効で、早大と対戦したときには三振の山を築いた。さらに前回大会優勝校の関西学院から堀龍三が転校してきて戦力に厚みができた。チームの平均体重は66キロ(当時の中学生の平均体重は50キロ前後)と体も大きく、それぞれがここへ球が入ったら絶対打てるというポイントを掴んでいた。

 7月23日、和中グラウンドにおいて、北島・戸田にとっては5回目の、そして最後の夏の地区予選が始まった。初戦の相手は初出場の海草中(現・向陽高)。和中打線は凄まじかった。結果は32対0。完膚なきまでに叩き潰した。続く決勝では和歌山工を39対0。予選タイ記録の得点である。二次予選でも郡山中を11対1で破り、桁外れの快進撃で7大会連続7回目の全国大会出場を決めた。

第7回紀和予選
和歌山予選
海草中 9-2 和歌山商
和歌山中 32-0 海草中
和歌山工 6-5 田辺中
和歌山中 39-0 和歌山工
第二次予選
和歌山中 11-1 郡山中
この年のオーダー
中 戸田 廉吉
一 深見 顕吉
遊 井口新次郎
投 北島 好次
左 堀 龍三
三 田嶋豊次郎
ニ 柳 純一
右 木 秀雄
捕 武井 健二

補欠
高村俊次郎
小笠原紀三九



 8月14日、第7回全国中等野球優勝大会が始まった。和中の初戦の相手は神戸一中。2年前の5回大会で敗れた相手である。そのときは勝った神戸一中はそのまま全国優勝を掴んでいた。今大会4番に座っている中道や6番の梅田はその時の優勝メンバーである。OBは強豪ということで心配していたが、試合が始まると不安は消し飛んだ。初回、先頭の戸田の打った打球を相手遊撃手が弾き出塁。続く深見、井口と連続二塁打で続き打線が爆発。初回に一気に5点を先制。5得点を挙げたのは第二回大会以来である。神戸一中のエース高杉はなんとか勢いを食い止めようと投げ方をサイドスローやアンダースローに変えるなどしたが、和中打線は止まらない。戸田の本塁打も飛び出し、全員安打20得点の圧倒的打力で初戦を突破した。相手の失策は実に12。当時は安打と失策の線引きが厳しく、少しでもグラブに当たると失策と記録されたという。和中打線の打球はグラブで弾いてしまうほど、速さが凄まじかった証である。北島・井口の投手陣も相手を2安打15奪三振の完封リレー。和中5年ぶりの勝利であった。

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 得点
和歌山中 5 1 0 1 0 4 3 0 6 20
神戸一中 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
和歌山中 打数 安打 神戸一中 打数 安打
8 戸田 廉吉 6 1 3 立田 賢一 4 0
3 深見 顕吉 6 1 6 阪東 勝 4 0
6-1 井口新次郎 6 2 5 高松 等 4 0
1-6 北島 好次 6 4 8 中道 延一 3 0
7 堀 龍三 6 1 2 下里 直麿 3 1
5 田嶋豊次郎 6 2 7 梅田 秀雄 3 1
4 柳 純一 6 3 1 高杉 保 3 0
9 木 秀雄 6 1 9 八木 捷男 3 0
2 武井 健二 5 2 4 高原 広治 3 0
53 17 11 1 0 9 3 30 2 15 0 0 3 12

 続く2回戦は初出場の釜山商。勢いは止まらず、6選手が複数安打。2試合連続20点差の21対1。準決勝の豊国中戦でも18対2。初めて準決勝の壁を破った。2回目の全員安打に加え、井口・北島の3・4番が3試合連続の複数安打。「打撃は今ひとつ」の打線は空前絶後の化物打線と様変わりしていた。

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 得点
釜山商 0 0 0 0 0 0 0 0 1 1
和歌山中 5 0 4 4 4 0 4 0 x 20
釜山商 打数 安打 和歌山中 打数 安打
6 福田 賢一 4 1 8 戸田 廉吉 5 2
5 横道 一郎 4 1 3 深見 顕吉 5 2
4 村田 良平 4 1 6-1 井口新次郎 5 3
3 白井 道通 4 0 1-6 北島 好次 5 2
7 三好 信夫 4 1 7 堀 龍三 4 2
9 山本 蔓雄 4 1 5 田嶋豊次郎 5 0
2 二木 光雄 4 1 4 柳 純一 4 1
1 下条 知夫 5 0 9 木 秀雄 5 0
8 鈴木 静夫 4 1 2 武井 健二 5 3
37 7 13 0 0 1 11 43 15 3 6 1 7 6


チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 得点
和歌山中 2 1 5 1 0 2 5 0 2 18
豊国中 0 0 0 0 0 0 0 1 1 2
和歌山中 打数 安打 豊国中 打数 安打
8 戸田 廉吉 5 3 7 原田 守次 4 0
3 深見 顕吉 5 1 1-5 久礼 春夫 4 1
6-1 井口新次郎 6 4 3 漁島 良蔵 2 1
1-6 北島 好次 5 2 2 平野 尚 4 0
7 堀 龍三 3 2 9-8 沖 文雄 4 2
5 田嶋豊次郎 5 2 8-1 山本 陸郎 3 0
4 柳 純一 6 1 5-8 中川 善雄 3 1
9 木 秀雄 4 1 9 北村(喜多村) 敏人 0 0
2 武井 健二 4 1 6 徳海 好夫 3 1
4 徳永 多二夫 3 0
43 17 5 4 6 8 4 30 6 4 4 1 2 9


 決勝は京都一商。京都勢との対戦は実に4度目。いずれも和中は敗戦している。京都一商は前回6回大会でも対戦しており、エースの竹内愛一の前に4安打1得点に終わっている。竹内は点は取られるが負けない投手として有名で、「平凡な大投手」と呼ばれている。早大に進学後は1925(大正14)年の復活早慶戦で先発を務め、慶大を1安打完封に抑えている。41年から43年は朝日軍、46年は中部日本の監督も勤めた。今大会でも竹内や5番だった安江は健在で、大会前には早大の2軍に勝利するなど強力なチームだった。和中も6月に試合をしており、この時はヒットを多く打ちながらも5対3で破れた。1回戦では第2回大会優勝チームでこの年和中に次ぐ6年連続出場を果たした慶応普通部、2回戦では藤本定義がエースとして君臨していた松山商を破った。しかし準決勝の大連商戦で竹内がスライディングで足をくじいてしまい、安江が緊急登板。竹内は熱く包帯した足に草履を履き、和服の格好でベンチコーチの市岡忠男(後に早大2代目監督・巨人軍代表)の横で試合を見守ることとなった。しかし3試合で23得点を上げる強力打線は健在で、緊急登板ながら大連商打線を抑えた安江を和中打線がどれだけ打ち込めるかが優勝への鍵であった。試合開始は午後1時の予定だった。しかし、京都一商の選手が大変疲れているということで、午後2時に伸ばしてほしいという申し出があった。当時の和中のコーチの矢部和夫と京都一商コーチの市岡忠男は早大で共にプレーしており仲が良かったことからあった申し出だった。

京都一商 和歌山中
8 川越 朝太郎 8 戸田 廉吉
7 川瀬 哲郎 5 田嶋豊次郎
4 原田 安次郎 6 井口新次郎
1 安江 忠之助 1 北島 好次
5 八木 正裕 7 堀 龍三
2 古藤 栄太郎 4 柳 純一
3 梅田  嘉三郎 3 深見顕吉
6 岩竹 勝次郎 9 木 秀雄
9 田中 多記男 2 武井 健二

 試合は初回、いきなり戸田が二塁打を放ち、守備のもたつきも絡みこの回いきなり得点。3回にエラーや四球が絡んで3点を失うが、その裏、武井・田嶋・深見の3長打が飛び出し計5得点。北島は4回にも1点を失うがその後無失点。打線は3回の勢いのまま5回以降は毎回得点。7回には戸田、8回には堀が2点本塁打を打つなど打線は決勝でも爆発し。安江を完全に打ち崩した。16対4。第7回全国中等野球優勝大会。ついに和中は全国の頂点に到達した。

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 得点
京都一商 0 0 3 1 0 0 0 0 0 4
和歌山中 1 0 5 0 1 3 2 4 x 16
京都一商 打数 安打 和歌山中 打数 安打
8 川越 朝太郎 5 3 8 戸田 廉吉 4 2
7 川瀬 哲郎 4 1 3 深見 顕吉 4 2
4 原田 安次郎 5 2 6 井口新次郎 4 1
1 安江 忠之助 5 0 1 北島 好次 4 0
5 八木 正裕 4 2 7 堀 龍三 3 2
2 古藤 栄太郎 4 0 5 田嶋豊次郎 2 0
3 梅田  嘉三郎 3 0 4 柳 純一 3 2
6 岩竹 勝次郎 4 0 9 木 秀雄 5 1
9 田中 多記男 3 0 2 武井 健二 5 3
37 8 6 2 1 6 8 36 13 2 6 5 5 4

当時の試合評

 守備、打撃、藻類、チームワーク、この四条件において大した欠陥のない京一商と和歌山中学が優勝戦に参加し得たのは、将に当然なる成行である。竹内投手が傷ついて出場し得なくなったのは、一商にとっては非常に苦痛ではあるものの、安江投手が和中の猛打を如何ほどまで防ぎ得るかがまた興味あるところである。併しながら、北島にしても安江にしても、相手の強い打撃を封ずるには不十分な恨がある。斯う考えると、勝敗の分岐点はエラーの数に起因する事可なり大である。三回和中の猛打を受けてから、京商安江がスローボールを交えたのは甚だ可い。但し、平素に練習が足りなかった為めにボールの数を増す嫌いがあった。
 和中の強みは打撃が揃って強く、相手の投手に肩休めの暇を与えないところにある。守備は大して非難する点はないが、エラーが一つ出ると、どうかすると連発する欠点がある。
 一商の打撃は、七番ぐらいまで可なりよいが、後が続かない。川越の打撃盗塁に於ける活躍は凄まじいものであった。守備においては遊撃と一塁に欠陥があるように思われた。捕手のファウルフライを捕ると捕らぬとは大した差がある。捕り得るには十分なファウルフライを、一商の捕手は手を出さない。平素においてこの練習が足りないのである。一商にとって、今日のこの重大なる最後の試合に、正投手竹内を出し得なかったのは遺憾の極みである。若し竹内が出たら、どんなに面白いゲームを見せられたかと惜まれる。(松田捨吉大会委員)

 この大会、和歌山中は大記録をいくつも樹立している。まず1大会75得点。これは2000夏の智弁和歌山(6試合で57得点、大会記録の100安打を記録)や2004夏の駒大苫小牧(5試合で43得点、大会記録の打率.448を記録)、2008夏の大阪桐蔭(6試合で62得点)、2011夏の日大三(6試合で61得点)などを遥かに上回り、未だに大会記録として君臨している。得失点差67も次ぐのが1936年岐阜商の43と不滅の大記録である。次に1大会29盗塁。機動破壊で甲子園を席巻した2014年の健大高崎が26盗塁と迫ったが、準々決勝で破れてしまい更新はならなかった。そして井口新次郎が16得点の個人記録を記録した。それ以外にも、当時の大会記録や大会初の記録を多く残している。

・戸田廉吉が大会史上初の1大会2本塁打を達成(1949年倉敷工の藤沢が3本を打つまで大会記録)。
・大会初の先発全員安打(対神戸一中戦、対豊国中戦)。
・1大会チーム最高打率.358(1950年鳴門が.362で更新)
・1大会チーム安打数62(1950年鳴門が64で更新)
・大会史上初の5大会登録(北島好次・戸田廉吉)

優勝メンバー

4.4 和歌山の熱狂
 大会が終わり、深紅の大優勝旗を和歌山に持ち帰ると駅前は凄まじい人の数で選手たちはもみくちゃになってしまい駅長室へ一度避難をすることになった、駅前の雀ずし峭茶屋の二階から選手を紹介・挨拶をしてファンの歓迎に応えた。この時、人手は駅前の広場から伝法橋に至るまで埋まるほどであったという。各界の代表者が入れ代わり立ち代わり祝辞を述べた後、一行は自動車に乗って出発。OBで和中強化に尽力した出来助三郎宅を訪れるなど市内を練り歩いた。後日、砂の丸広場で県・市が主催の祝賀会を改めて開催。オープンカーに選手を乗せて、その後ろを提灯を持った全校生徒が続いた。市役所前から知事官舎、主将の北島宅、本町、福町、十三番丁、砂の丸の順で校歌を歌いながら練り歩いた。行く先々で奉祝提灯をもった市民に歓迎された。この祝賀会には2万人を超える人々が集まったという。優勝旗は各選手たちが自宅に持ち帰って家族と喜びを分かち合ったり布団の下に敷いて寝たりと順に回した後、校長室に飾られた。


北島好次の回想

 第一回から連続出場してきた我々の和中は、伝統的に投手力がよかった半面、打てなかった。負けるときはたいがい1−0という試合でくやしくてしようがなかった。それで私が五年生、主将になったこの年、「打ちさえすれば勝てるのだ」と猛烈に打撃練習をやった。それと同時に練習も科学的なやり方に切り替え、ベース・ランニング、特にスタートの切り方を工夫するなど、とにかく攻撃に重点を置いた。私が投手に回ったのは四年生の予選前、戸田君が肩を壊してからで、この時はただ肩がよいだけの、ストライクを投げられた速成投手だった。だから四球で負けた。
 それから奮起してピッチングをやった。毎日一時間半ぐらい、百八十球ほど投げた後で打撃練習の投手もやった。私独特のドロップを編み出し、この年にはもう打たれない自信がついた。それに井口君もいたので投手陣は整った。目標は京都一商だった。前年の大会で負けた相手だし、六月に大阪の天王寺中学のグラウンドで試合した時も、ヒットを多く打ちながら5−3ぐらいで負けた。それで、どうしてもと奮起した。やったかいがあった。鳴尾では快勝に次ぐ快勝。ところが試合中はいくらリードしていても、なんか負けているような妙な引け目があった。毎年痛めつけられていたからに違いない。決勝の京都一商には16−4で勝った。和歌山へ帰って熱狂的な歓迎攻めにはじめて自分を取り戻した時、これで一生を終わっても、とそんな気持ちだった。

3.全国大会の中の和中

5.史上初への挑戦

旧制和歌山中学野球部史

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