3.全国大会の中の和中

3.1 大会当日まで


和中第一回大会出場メンバー
大会前夜の茶話会
第一回大会始球式。右は村上朝日新聞社長
左は鳥取中鹿田投手。
和歌山中対鳥取一中戦

 市岡中に勝利し、全国大会へ駒を進めることが出来た和中であったが、先述の通り、大会予選決勝は美津濃主催の関西大会の準決勝である。まだ戦いは終わっていない。決勝の相手は前回の関西大会で破れた強豪神戸一中である。神戸一中は既に兵庫予選において、準決勝で関西学院に破れ、全国大会行きを絶たれている。しかしこの関西大会では実力をいかんなく発揮し、京津代表の京都二中、兵庫代表の神戸二中を破って決勝まで勝ち残ってきた。当然、和中メンバーは前年の雪辱をと息巻いたに違いない。だが結果は敗退。予選敗退校が近畿の代表3校全てを破って優勝という珍事が起きてしまった。

 8月15日、鳥取中が杵築中を破り、最後の代表校が決定。出場校は秋田中(秋田)、早稲田実(東京)、三重四中(三重)、京都二中(京都)、神戸二中(兵庫)、広島中(広島)、鳥取中(鳥取)、高松中(香川)、久留米商(福岡)、そして和歌山中(和歌山)となった。
 関西大会が終わってから、全国大会当日までわずか数日。和中野球部は監督の中本教諭と共に開催地大阪への汽車に飛び乗った。宿泊場所は梅田駅前の金龍本店。ここには和中以外にも、秋田中・早稲田実・広島中なども宿泊している。大会前夜の8月17日、大阪に集まった各地方の代表校には朝日新聞から記念賞が贈られた。各々ポケットに忍ばせたり、帯に挟んだりと、満足そうに身につけた。その夜には堂島川ほとりにある大阪ホテルで茶話会に参加した。席分けがされなかったため、各校の選手入り混じり座ることとなったが、各々長テーブルに着席し、会話が弾む盛宴となった。


3.2 1915年8月19日、第一回全国中等学校優勝野球大会

1915年8月18日。現在まで続く日本のアマチュアスポーツ最高峰、全国高等学校野球選手権大会の前身、全国中等学校野球優勝野球大会の第一回大会が始まった。その栄光ある第一回大会の出場校の中に和中の名前はしっかりと刻まれている。前日に漂っていた雨雲は消え去り、絶好の野球日和となった。会場の豊中グラウンドは内野の観客席は板張りの階段。外野は縄を張っただけの簡素なものであったが、観客は一万を数え、人であふれた。また、今大会ではホーム後方のスタンド席に女性専用席も設けられた。

午前7時20分に鳥取中が、同30分に広島中が現れた。記念すべき第一回大会第一試合の対戦チームである。それぞれが20分間のシートノックをし8時25分、荒木寅三郎審判長、福井松雄・平岡寅之助両副審判長立ち会いのもと鳥取中・広島中がホームベース前に整列する。両者礼の後、鳥取中が守備へ、広島中が攻撃へ。8時30分、荒木審判長からボールを受け渡された村山龍平朝日新聞社社長が始球式を行いプレイボール。第一球は後攻鳥取中の鹿田一郎投手が投げることとなった。第一球はド真ん中へのストレートだった。
初日の全試合が終了後、和中の選手を含む選手一同は午後六時より箕面電気会社(後の阪急)に招かれ、特別電車に乗って宝塚パラダイスを訪れた。温泉に入って汗を流し、果物サイダーが振る舞われた晩餐では少女歌劇(宝塚歌劇団)の演奏もあった。社長の平賀の「朝日新聞社の主催の全國優勝野球大會につき諸君が豊中グラウンドに於て奮闘せらるゝは本社の無上の名譽とする所にて朝日新聞の社説にもありし通り 今日 諸君が野球に對する奮闘はやがて社會に於ける奮闘たらん事を望む」といった話もあった。少女歌劇は舌切雀、音楽カフェー等の歌劇を行った後、野球大会の歌を合唱した際には、会場拍手喝采となった。催しは10時過ぎまで続き、選手たちは大いに楽しみ、帰りの特別列車では歌劇の物まねをするなど大はしゃぎであった。

翌19日。早朝は空模様が良くなく雨も予想されたが、8時過ぎに雲に切れ目が入り日差しが差し込んできて、予定通り3試合が行われることとなった。この日は和歌山中の全国大会初陣の日である。和中ナインは午前8時すぎに球場入りし、練習で汗を流した。対戦相手は九州代表久留米商。午前9時20分、福井副審判長立ち会いのもと、試合開始が宣告され、和中先攻で試合が開始された。オーダーは今大会通じて以下のとおりである。
和歌山中 久留米商
8 奥山弥太郎 6 片岡
6 西村秀行 1 城崎
3 永岡一 8 今里
2 矢部和夫 2 田中
1 戸田省三 4 佐藤
5 中筋武久 7 本間
7 小笠原道生 9 内藤
4 小川錦水 5 秋山
9 小川豊 3 森崎


1回表、九州大会2試合で3失点と安定したピッチングをしていた久留米商の投手城崎がいきなり乱れ、奥山、永岡が四球で出塁。続く4番矢部がライトへヒットを放ち先制。続く戸田がスクイズを敢行するも失敗。しかし次の中筋が走者一掃の二塁打を放ち一挙2点。いきなり3点を入れた。
1回裏、和中戸田もぴりっとせず、先頭の片岡に安打を打たれた。続く城崎は三振に切るも、3番今里、5番佐藤にライトへヒットを打たれ失点。1点を返されてしまった。
チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 得点
和歌山中 3 3
久留米商 1 1


2回表、和中は先頭の小川錦が四球を選ぶも後続が振るわず凡退。
2回裏、久留米商も8番秋山がニ塁手小川の失策により出塁するもその後三者凡退。
チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 得点
和歌山中 3 0 3
久留米商 1 0 1

3回表、久留米商の城崎の調子がよくなり、和中の永岡・矢部・戸田のクリーンアップを3者連続三振に抑える。
3回裏、和中の戸田も一番から始まる久留米商打線を投ゴロ・遊飛・投ゴロに仕留め、リードを保つ。

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 得点
和歌山中 3 0 0 3
久留米商 1 0 0 1

4回表、中筋がニ失で出塁し盗塁。続く小笠原の打球で三塁へ進むも後続が打てず無得点。
4回裏、先頭の田中を三振。続く佐藤・本間を遊ゴロに打ち取り無失点。

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 得点
和歌山中 3 0 0 0 3
久留米商 1 0 0 0 1

5回表、一死後西村が一失で生き、続く永岡・矢部が四球を選び一死満塁。だが続く戸田・中筋が一飛・三振に倒れ得点ならず。
5回裏、この回も和中の戸田は好調で、下位打線の内藤・秋山・森崎を三振・遊飛・三振に抑え4イニング連続無失点。

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 得点
和歌山中 3 0 0 0 0 3
久留米商 1 0 0 0 0 1

6回表、一死後小川錦が投飛失で出塁。小川豊は三振するも、一番に戻り奥山が四球、西村が左安で満塁。三番永岡はここで四球を選び押し出しで追加点。次の矢部の遊ゴロを片岡がファンブルしこの回2点目が入った。
6回裏、先頭の1番片岡から3番の今里まで三球連続で遊撃手の西村のところへボールが飛ぶ。西村はそれぞれ遊失・二塁フォースアウト・遊失と2失策をしてしまい一死一二塁。和中が初回以来のピンチを招く。続く田中の打球は三塁中筋の元へ。これを中筋も失策をしてしまった。戸田はノーヒットに抑えながら1失点をしてしまった。

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 得点
和歌山中 3 0 0 0 0 2 5
久留米商 1 0 0 0 0 1 2

7回表、二死後、小川錦が遊撃手片岡の後方へ落ちるヒットを放つ。次の小川豊も四球を選ぶが、奥山が二直に倒れ追加点は入らず。
7回裏、先頭の内藤の打球を三塁中筋が処理することができず出塁。次の秋山は遊ゴロで一塁走者の内藤を刺す。更に秋山も森崎の打席で盗塁を試みたが失敗。森崎は三塁線を抜くヒットを放つも欲張って二塁に向かうが間に合わず。和中は敵の自滅に助けられ無失点で切り抜けた。

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 得点
和歌山中 3 0 0 0 0 2 0 5
久留米商 1 0 0 0 0 1 0 2

8回表、二番西村の左安から始まる。続く永岡・矢部が四球で出塁し無死満塁。ここで戸田がセーフティスクイズを決めまず一点。中筋は三振に倒れたが、小笠原は再びセーフティスクイズ。久留米商捕手田中の三塁送球を秋山が弾きその間に矢部も生還しこの回3点。久留米商城崎は集中力が切れたのか、小川錦・小川豊に連続で中安を打たれ、小川錦の安打で2点入り和中5点目。守備陣も浮足立ち、奥山の飛球を城崎が落球し更に1点。一巡回ってこの回2打席目の西村の打球を三塁手秋山が再びエラーし1点。続く永岡はなんとか三振に抑えたが、矢部の遊ゴロを一塁手が弾き、戸田が右安で1点。久留米商の守備は完全に崩壊していたが、中筋の二ゴロをなんとか裁き、長い8回表が終わった。この回和中9得点。
8回裏、一死後城崎が二塁打を放ち気を吐いたが、続く今里が三ゴロ。城崎は三塁へ進塁したが、離塁した際に刺されチャンスを潰した。田中が併殺に倒れこの回も久留米商無得点。和中の勝利は目前となった。

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 得点
和歌山中 3 0 0 0 0 2 0 9 14
久留米商 1 0 0 0 0 1 0 0 2

9回表、小笠原がニ安、小川錦・小川豊が四球で出塁し二イニング連続で無死満塁のチャンス。次の奥山の打球を一塁手森崎が処理を誤り、小笠原が帰り1点。小川錦も本塁へ突入したがアウト。後続は続かず、西村が遊飛、永岡が右飛に倒れ和中の攻撃は終了。
9回裏、和中は勝利を目前にして硬くなったか、5番佐藤、、7番内藤をエラーで出塁させてしまう。しかし8番秋山、9番森崎を投ゴロに仕留め、試合終了。時間は正午丁度。和歌山中は15対2の大差で全国大会初陣を勝利で飾った。、

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 得点
和歌山中 3 0 0 0 0 2 0 9 1 15
久留米商 1 0 0 0 0 1 0 0 0 2


和歌山中 打数 安打 久留米商 打数 安打
8 奥山弥太郎 4 0 6 片岡 4 1
6 西村秀行 6 2 1 城崎 4 1
3 永岡一 3 0 8 今里 4 1
2 矢部和夫 4 1 2 田中 4 0
1 戸田省三 6 2 4 佐藤 4 1
5 中筋武久 6 1 7 本間 4 0
7 小笠原道生 5 1 9 内藤 4 0
4 小川錦水 4 2 5 秋山 4 0
9 小川豊 4 1 3 森崎 4 1
42 10 36 5
42 10 13 12 3 8 15 7 36 5 6 0 0 0 7 10

当時の試合評は以下のとおりである。

試合の結果のみを見る時は両軍の差非常に大きく、久留米は手も無く惨敗せるが、如くなるもその実、久留米としては技術相応の善戦をなせるものにして、第8回目に至り、敵軍の巧打と見方の連失に混乱また混乱を極め、ついに一撃9点の生還者を的に得せしめたるは、試合馴れざる久留米としては是非も無き、事にて強ちプレーヤーを飲み責むべきに非ず。

ことに久留米の投手城崎は予想以上の技術を発揮し、第45回目までは流石の和歌山軍をして攻めあぐましめ、よく一軍を統率して、最後まで健闘せし意気は壮とすべく二塁手佐藤の活躍ぶりもまためざましきものありしが、捕手田中すこぶる敏活を欠き○(解読不能)に二塁の盗塁者を制し得ざりしのみならず、試合中その前後左右に打ち上げられたるフアルボールの中少なくとも67個は優に捕手の手中に収め得らるべかりしボールなるにもかかわらず、毎次逸球して全軍の士気を鼓舞する能はざりしは久留米軍の一大欠点にしてこの試合の勝敗にも重大の関係を有したりが如し。
その他選手個人としては特に目立つもの無くいずれも位置相応の活動を試みたるがその戦闘法は未だ原始的一騎打勝負の域を脱せずすべての動作セオリーに叶わざる点多々ありたり。
したがって、最初より45回目まで比較的打撃の振るいしイニングにおいては大に敵を窘窮(きんきゅう・困り苦しむこと)せしめ勝敗の数をさへ疑わしむるものありしが、和歌山の投手戸田がその先頭法を変更すると共に打撃を封ぜられて以来、更に攻撃振るわずついにこの大敗を招くに至りしは遺憾なりというべし。

和歌山は最初あまりボールを選びすぎたたるためかえって三振を多く喫したる観あり。それに反し味方の球は頻々(同じようなことが引き続いて起こるさま)として敵打者の巧打するところとなり、一時非常の苦戦に陥りしも中途より攻守ともにその先頭法をあらため、ようやく本来の技術を発揮するを得たり。盗塁その他走塁法においても久留米に比し一日の長あり、すべての動作もよくセオリーに叶いたるを見る。(『第一回全国野球大会記録』 朝日新聞社(1915年)より。一部変更あり)

和中は中盤こそ久留米商城崎に抑えられ、ゼロ行進が続いたが、1回、8回と打線が爆発し、大勝となった。エース戸田は味方の失策に苦しめられたが、四球を一度も出さず、また捕手の矢部も盗塁を一度も許さなかった。久留米商エース城崎が12四球、捕手田中が8盗塁を許したのとは対照的であった。

試合終了直後、大会委員が翌20日の組み合わせ抽選を行った。組み合わせは以下のとおりである。

第1試合 和歌山中対鳥取中
第2試合 19日第2試合勝者対早稲田実業

和歌山中の次の試合は鳥取中となった。

3.3 頂点に届かなかったが

翌20日は前日の雨の影響で試合時間が一時間遅れることとなった。グラウンドが乾き、和中メンバーと鳥取中のメンバーが整列。試合開始時刻は10時10分である。
関西大会などに出場し、経験を重ねている和中に比べ、鳥取中は大会への出場経験が乏しく、小柄な選手が多かったため、観客に嘲笑を受けるほどのチームであった。
試合は和中戸田、鳥取中鹿田の投手戦となった。特に鹿田の投球は素晴らしく和中打線はゴロの山を築き、8回を終わって二塁まで進んだ走者はわずかに1と完全に鹿田に押さえ込まれていた。一方、和中は戸田は好投するも、守備陣はエラーが絶えず、8回裏にはエラーが重なり鳥取中に得点を許してしまう。
敗戦の雰囲気がチームに広がり始めた9回表、先頭打者の小川錦は打ち損じて投ゴロ。しかし鹿田が一塁へ暴投をしてしまい、小川は一気に三塁へ。小川豊の四球の後、打席には1番奥山。ここから和中は作戦を変更した。1番奥山から7番小笠原まで実に7人連続のバント戦法に打って出る。三塁ランナーとサイン交換を行い実行したこの作戦で、鳥取中守備陣は完全に崩壊。初めて見るこの戦法に鳥取中内野陣は完全に浮足立ってしまった。鹿田が投球スタイルを変え、高めにボールを集めたことも幸いし、バントは成功に成功を重ね、和中は7点を入れ一気に逆転。取られたアウトはわずかに永岡の本塁死一つのみであった。鹿田は続く小川錦、小川豊を三振、ニゴロに打ち取り攻撃を終わらせたが、裏の鳥取打線は完全に沈黙。三者凡退で攻撃を終え、試合終了。午後0時10分、和中の逆転勝利であった。

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 得点
和歌山中 0 0 0 0 0 0 0 0 7 7
鳥取中 0 0 0 0 0 0 0 1 0 1



試合の翌日21日、準決勝の組み合わせ抽選が行われ、和中は強豪京都二中との対戦となった。
京都二中は当時、愛知一中と並ぶ名門チームと謳われ、今大会でも優勝候補であった。
試合は和中戸田と京都二中藤田の投手戦となった。戸田は2回にヒットで出たランナーをエラー絡みでホームインさせてしまったが、それ以外はよく抑え2安打1失点。和中打線は無安打ながら2回にエラーで出塁したランナーをなんとか返し1点。試合は1対1のまま9回を迎えた。9回裏、京都二中津田の打席の時、雨が強くなり、試合続行が不可能となった。午後3時半、ドロンゲームを宣言し、大会史上初の再試合が翌22日実施されることとなった。
ちなみに試合中、校長の野村は京都二中の校長と共に試合を観戦しており、「京都はなかなか良く打ちますなあ」などと歓談していたが、その実、心のなかでは「アウトになればいい」と思っていたと当時の雑誌に書かれている。京都二中の中山も「和歌山の守備はしっかりしたものですなあ」と言っている心のうちで「失策すればいい」と思っていたと、同じく雑誌に書かれていた。

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 得点
和歌山中 0 1 0 0 0 0 0 0 0 1
京都二中 0 1 0 0 0 0 0 0 - 1


翌日、午後1時8分より試合が始まった。前日の疲れからか初回から和中の守備は乱れ、遊撃手西村、中堅手奥山、三塁手中筋と立て続けに後逸しノーヒットでいきなり2点を奪われてしまった。2回表には小笠原の2点タイムリーで同点に追いつくも、4回から7回にかけて得点できず。対する京都二中は藤田を完全に攻略し、3回からヒットを積み重ね毎回得点。和中は8回に四球とエラーで1死満塁のチャンスを得て、矢部の四球、戸田のニゴロで計3点を返す。しかし、逆転まではできず試合終了。和中最初の夏はベスト4で終わった。試合評は以下のとおりである。

両軍の打撃、大いに奮い、大会開始以来はじめての打撃戦を演じたり。本来の打撃力を比較する時は話中やや京都二中に劣る感あり。現に21日の再試合においては和中30の打席中、一本も安打が出ない有様。その後、各打者が工夫を重ねていくと、京都二中エース藤田の肩の状態が悪くなっていくと少しずつ安打が出るようになった。今回の試合の勝敗は両軍の守備の優劣によって分かれ特に、三塁手中筋と外野陣のエラーが致命傷であった。京都二中はエラーは少なかったが、捕手山田のパスボールはもったいなかった。前日京都二中相手に1対1と善戦していた和中であったが、今回の敗戦は不運というよりかは順当の結果であるといえよう。(文章は要約)

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 得点
和歌山中 0 2 0 0 0 0 0 3 0 5
京都二中 2 0 1 1 1 1 2 1 x 9

第一回大会は8月22日、京都二中の優勝で幕を閉じた。和中では小川錦が準決勝進出選手では秋田中渡邉に次ぐ2位の.333。チーム打率は10チーム中6位の.119であった、ちなみに1位は京都二中の.196である。守備率も同じく6位の.868。大会終了後、各チーム選ばれる優秀選手には捕手の矢部が選ばれた。

和中は翌年も予選大会に出場。大阪が単独出場枠となり和歌山・奈良2県での予選となった。しかし奈良県からの出場はなく、和歌山の5校での争いとなった。田辺中を18対0、高野山中を19対4と大差で破り、第二回大会にも出場。一回大会にも出場した小川錦水、中筋武久、小笠原道生、奥山彌太郎、永岡一の5名が残っており、この大会でもベスト4。初戦で再び鳥取中、続く2回戦で広島商と対戦。共にバント戦法で勝利。準決勝では8回まで3対3と互角の戦いだったが9回、慶応エース山口の本塁打などで4点を取られ敗退。2年連続優勝チームに惜敗となった。

第二回大会後の1917年(大正6年)、名物校長野村が岡山中へ転任となった。原因は他にもあったと思われるが直接的な原因は応援団事件と呼ばれるものであったと言われている。
当時、毎年夏休みに、県下中等学校連合運動競技会というものが和中校庭で開かれていた。和中は各競技で他校を圧倒しており、他校では陰口を叩くものがいた。当時水野治という熱血教員がおり、自ら応援団長となって指揮刀振り回し朗々とした号令で応援団をしきっていた。1916(大正5)年の競技会のテニスの試合で審判員が曖昧な判定を下し、群衆から抗議や弁護など様々な声が飛び交う事態となった。審判員が狼狽していたところ、水野が指揮刀片手に血走った眼で進み出てきた。これに審判員が危害を加えに来たものと思い込み逃げ出す騒ぎになった。結果現場に居合わせた県庁役人が和中応援団の横暴、更に教員が先陣を切って扇動するとはもってのほかということで「今後学校の運動競技において、応援をしてはならない」という訓令を当時の知事鹿子木小五郎が出したというものである。これに県下だけでなく、全国的に賛否両論が飛び交い、その中で野村校長に岡山中転任の話がわき、これ以上現職にとどまるのは出処進退を誤る恐れがあると考え、異動となったのだ。

野村校長は転任となったものの、和中野球部は衰退することなく、全国最強の野球部へと成長していく。

2.全国大会始まる

4.和中黄金時代の時

旧制和歌山中学野球部史

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