2.全国大会始まる

2.1設備・人材の充実
1915年4月、校舎が移転した。今までの練習場所は砂の丸広場であったが、狭い上に中央に老松並木があり練習に支障が出るほどであった。そのため、当時の野村校長が県当局に強引に頼み込み校舎移転をさせて広大なグラウンドを確保したのである。このことは野村にとっても大満足な出来事だったらしく、「これ実に私が和中の教育及び運動奨励に貢献し得た基礎であった」と自賛をしている。

2.2初の全国大会開催決定

第一回大会開催告知
1915年7月1日、和中が美津濃運動具店主催の大会に向けて猛練習を行っている頃、大阪朝日新聞社が一面で第一回全国中等学校優勝野球大会の開催を発表した。この大会こそ、現在まで続く全国高等学校野球選手権大会である。当時は和中も参加していた三高、美津濃の大会のほか、四高、六高、明治専門などが主催する大会、東海五県連合大会、東京府下大会などがあるだけで、初の全国大会の開催である。
第一回大会の開催の決定を6月下旬、告知を7月1日、大会日程を8月18日からの五日間という強行日程で進めたため様々な問題が発生した。
まず地方予選問題である。 京津・兵庫・山陽・四国・九州の五地方では予選の開催を行うことが出来たが、他地方では様々な事情から予選の開催ができなかった。

北海道では1908年から1909年にかけておきた札幌一中と北海道師範の応援団同士の紛争の影響で対外試合禁止例が出されていたため予選は開催されなかった。

東北(青森・岩手・秋田・宮城・山形・福島)では朝日新聞から秋田中にのみ出場依頼の連絡が届き、同時に対戦成績を送れと指示があった。この年まだ試合を行っていなかった秋田中が横手中・秋田農と試合を行い、この結果を送ったところこの試合が東北予選となってしまった。という説と、秋田中から出場の申し込みが朝日に届き、同時に同じ秋田の横手中・秋田農からも出場申し込みが届いたため、三校で予選を行ったという説がある。いずれにせよ秋田以外の県は不参加となった。ちなみに青森では明治末期の応援団の乱闘事件により中学校間の対外試合が禁止されている。

関東(栃木・群馬・茨城・埼玉・千葉・神奈川・東京・山梨)は東京朝日新聞の管轄であったのだが、その東京朝日新聞が明治末期に展開した野球害毒論の影響で東京朝日新聞に対する球界の反感は凄まじいものだった。そのため予選開催が困難になり、頭を悩ませた東京朝日新聞は、雑誌『武侠世界』と交渉。毎年春に武侠世界が主催していた東京府下野球大会を予選として、その優勝校を代表とすることで急場をしのいだ。しかし東京府下野球大会は、文字通り東京府のチームしか出場をしていないため、他の関東のチームは予選に参加することが出来なかった。ちなみに千葉県では1908年に佐倉中と成東中の間で応援団の衝突があり対外試合が禁止されていた。また東京府下大会は翌年の第7回大会を最後に行われていない。

東海では1902年から続いている東海五県連合野球大会が予選となった。五県とは愛知・岐阜・静岡・滋賀・三重である。このうち、滋賀は京都以外との試合が禁止されており、京津予選へ、静岡では野球害毒論に静岡中の校長が寄稿するなど野球弾圧が活発で不参加となり、東海予選は愛知・岐阜・三重の三県での予選となった。

関西(大阪・和歌山。奈良)では、大会開催地ということもあって、なんとか予選を開催しようとしたが、様々な事情から予選を開催することが出来ず、やむなく美津濃運動具店主催の関西大会を予選とすることとなった。しかし美津濃の大会は大阪・和歌山・奈良以外の県も出場をしているため、優勝校を代表とすることは出来ない。そのため、大阪・和歌山・奈良を一つのブロックにし、もうひとつのブロックを他県にして、ブロック代表となる準決勝を関西大会代表とすることとした。ちなみにこの大会は兵庫予選を敗退した神戸一中が優勝を果たしている。 また、この大会に奈良県からの出場はなかった。

山陰(島根・鳥取)では鳥取島根両県の代表校を決めた後、大会開催地である大阪豊中グラウンドで大会3日前に代表決定戦を行うこととした。山陰のみこのような変則的な行程になってしまったのは、1913年に米子で松江中対米子中の試合を行った所両チームのヤジがひどく、投石合戦にまでなってしまい試合続行が不可能になるという事件が起こったためである。ちなみにこの代表決定戦では敗退した杵築中が勝者の鳥取中にエールを送りわだかまりが解け、翌年からは代表決定戦は山陰で行われている。

北信越(新潟・長野・福井・富山・石川)に至っては四高主催の大会が既に8月22日からの五日間の開催と決定して準備が完了していたため、第一回大会と日程が重なり代表校を送ることが出来なかった。

また、四国では予選は行われたものの、高松中グラウンドで行われた香川商(現・高松商)対高松中の決勝戦でトラブルが起きた。
香川商二点リードの延長10回裏、高松中の一番高橋がレフトへヒットをうちランナー1塁の場面である。次打者木村の打席で香川商本田の投球は、身を乗り出しホーム中程まで出ていた木村の腕に命中。これを高松中OBの主審は死球と判定。香川商は故意に当たりに行ったものだと猛抗議。しかし高松中OBの何名かが審判を取り囲み故意ではないと力説。結果判定は覆らないまま次打者岩瀬の打席へ。この時、岩瀬が捕手の面をバットでつついたまま打撃をしなかったため主審がアウトの宣告。直後高松中OBと塁審が主審を取り囲み猛抗議。十数分の抗議の末結果はアウトの取り消し。アウト取り消しとなった岩瀬はレフトへヒット。死球で出塁していた木村と二塁走者高橋両選手が本塁へ突入し同点。ここで岩瀬は二塁を回り三塁へ。しかし既に三塁手にボールが届いていたため、岩瀬は二塁へ帰塁。二塁手が三塁手からの送球を補給する瞬間、岩瀬が二塁手の両手で二塁手の胸部をついた。当然香川商の主将は猛抗議。しかし三度高松中OBが審判を取り囲み故意ではないとの猛抗議。ついにはこれもセーフの判定。これに業を煮やした香川商の応援団がグラウンドに流れ込み、挙句の果て香川商OBが香川商の主将に放棄試合を命令。結果投手の疲労を理由に延長10回11−11の互角の試合は香川商の放棄試合ということで決着がついた。
ここまで高松中OBが試合に介入できたのには訳がある。四国予選は大阪朝日新聞後援の高松体育会主催である。この高松体育会というのが実はほとんど高松中OBで占められていた。そのため審判も高松中OBであれば会場も高松中グラウンド、勿論大会委員も高松中OBである。グラウンドも高松中応援団が大半を占め香川商応援団は極僅かであった。おまけに「全国大会へは香川商を出したいが優勝旗は高松中へ与えたい」「大会二回戦の組み合わせは抽選を二回行い面白そうな方にした」などの噂も流れていたという。

九州においても予選は行われたものの、熊本・鹿児島両県は対外試合禁止になっていることもあり、出場したのは福岡7校、長崎1校と寂しいものであった。そしてここでもまた問題が発生した。九州大会は7月31日に1回戦、翌8月1日に準決勝と決勝を行うという日程であった。この初日の一回戦の最終戦、豊国中対福岡師範が日没により順延となり、もしこの両校のどちらかが決勝まで行った場合、一日三試合という超強行日程になってしまうことになったのである。8月1日、午前九時に始まった豊国中対福岡師範戦は8対2で豊国中が勝利。豊国中は一試合置いて午後二時半から行われた準決勝も最終回に三点差をひっくり返して大逆転勝利。そして五時半から3試合目となる久留米商業との決勝戦が行われた。しかし豊国中はすでに2試合を終え、疲労困憊。なんとか試合は始まり、初回に一点を入れたものの序盤に八点を奪われる。そして六回、豊国中メンバーの疲労は限界に達しついに棄権の申し出。結果9対0の放棄試合で久留米商が代表となった。

以上の様に予選開催には様々な問題が起きたがなんとか代表校を決定することが出来た。
なんとか予選問題は解決したが次に発生したのが野球規則の決定である。当時全国には20ほどの大会があったがどこも規則が様々で統一の野球規則をがなかった。そのため大会委員十数人がかりでアメリカのスポルティング社の野球規則書を一つ一つ翻訳して規則を作ることとなった。
このように様々な問題が噴出している中、和中野球部員は全国大会予選へ向けて猛練習に明け暮れた。

2.3全国大会予選
7月25日三高校庭で行われた京津大会を皮切りに、全国各地で続々と予選が始まっていた。そして8月7日、和歌山・奈良・大阪の三県から代表校を選ぶ関西大会が第一回大会開催地である豊中グラウンドで始まった。出場チームは8校。和歌山から和中・耐久中・高野山中、大阪から大阪市工・八尾中・市岡中・明星商・大阪商。奈良からの出場校はなかった。ちなみに明星商は63夏の優勝校、市岡中は16夏の準優勝校、八尾中は52夏準優勝校である。また、先に述べたようにこの大会は美津濃運動具店主催関西大会の一部であり、関西予選となる大阪・和歌山・奈良によるブロックとその他の県によるブロックに別れ、ブロック代表となる準決勝が関西代表戦となる。

2.3.1対大阪商
和中の初戦の相手は大阪商である。和中は先述の大村の他、早大の名投手河野安通志(後の名古屋軍監督、イーグルス・日本運動協会創設者)・加藤などをコーチ陣に加え猛練習を行って技術が軒並み上昇していた。そのため、試合は和中の勝利であろうと予想された。大阪商と和中のオーダーは以下のとおりである。

和歌山中 大阪商
8 奥山弥太郎 5 石坂
6 西村秀行 6 渡辺
3 永岡一 1 中村
2 矢部和夫 7
1 戸田省三 2 浅田
5 中筋武久 8 豊田
7 小笠原道生 3 高瀬
4 小川錦水 4 佐瀬
9 小川豊 9 井上

試合が始まるとまさに予想通り、初回に和中が猛攻撃。相手のエラーも絡み一気に9点を先取した。二回・三回も1点を加え序盤に一気に11点を奪った。大阪商は投手を中村から石坂に交代し、追加点を防ごうとしたがかなわず、和中は四回に4点、五回に1点を加え実に16点を奪った。大阪商は完全に戦意を無くし、試合開始から5回の試合終了までついに一安打も放つことが出来なかった。和中は16得点で無失点、おまけに5回コールドながらノーヒットノーランという最高の滑り出しで一回戦を突破した。

1 2 3 4 5 得点 H E 打数 三振
和歌山中 9 1 1 4 1 16 6 2 30 3
大阪商 0 0 0 0 0 0 0 11 19 3



2.3.2対明星商
一回戦の大阪商戦を16−0と大差で破り、おまけにノーヒットノーランまで達成して波に乗っている和中は、一回戦和歌山の高野山を10−0で破った大阪の明星商と対戦した。
両チームのオーダーは以下のとおりである。

和歌山中 明星商
8 奥山 5 田村
6 西村 4 寺川
3 永岡 2 中島
2 矢部 6 谷口
1 戸田 8 中西
5 中筋 3 岡本
7 小笠原 9 宇野
4 小川錦 7 家治
9 小川豊 1 小野

試合は序盤から動いた。まず、一回裏、明星商が先頭田村がヒットで出塁、3番中島のヒットで田村が還りあっという間に明星商が先制。明星商が好スタートを切る。
しかし三回、和中が猛攻撃を開始、相手の失策も絡み一気に7点を奪い逆転。明星商はその後も和中打線を抑えられず四回に3点、五回に1点、六回に5点を入れ、再び16得点。圧倒的打線で明星商を7回コールドで破り代表決定戦への進出を決めた。

1 2 3 4 5 6 7 得点 H E 打数 三振 四死球
和歌山中 0 0 7 3 1 5 0 16 8 1 32 7 8
明星商 1 0 0 0 0 0 0 0 5 10 21 6 2



2.3.3決勝、対市岡中
一回戦の大阪商戦を16−0のノーヒットノーラン。二回戦の明星商戦を16-1と大差で破り決勝へ進んだ。決勝の相手は前年に破ったものの、今春0対8と完封負けを喫した大阪の名門市岡中である。市岡中出場メンバーの中には翌年選手権大会初のノーヒットノーランを達成する松本終吉や、早大で活躍する田中勝生・、中島駒次郎・富永徳義などがいた。実力は互角の強豪同士の対戦とあって、観客数は今大会最大を数えた。
泥だらけのユニフォームで入場する両チーム。雷のごとく響く拍手と応援歌の中、午後二時にプレイボール。市岡中のメンバーが守備につき関西地区代表決定戦が開幕した。
両チームのオーダーは以下のとおりである。

和歌山中 市岡中
8 奥山 9 富永
6 西村 1 中島
3 永岡 7 田中
2 矢部 5 松野
1 戸田 2 松本
5 中筋 4 町田
7 小笠原 6 島道
4 小川錦 8 栂井
9 小川豊 3 石田


1回表、和中は市岡中のエース中島を攻めあぐね三者凡退。その裏、市岡中は1番富永がエラーで出塁。早速ノーアウトのランナーが生まれた。続く中島、田中はバントで送り二死三塁と和中は初回からピンチを迎える。しかし4番松野を抑え初回は無失点。
2回表、和中は5番戸田がライトへポテンヒットを打ちにわかに盛り上がるが後続が返すことができず無得点。
試合が動いたのは2回の裏、町田・島道が内野安打で出塁するとに市岡が得意のバント戦法で1点を先取。市岡中応援団は満場総立ちとなり凄まじい歓声が球場に響き渡った。
和中は3回・4回・5回と無死でランナーを出すも中島を打ち崩すことが出来ず、焦りも相まって無得点。一方の市岡中も毎回走者を出すも和中の好守備に阻まれ得点ができない。
6回表、先頭の小川豊はアウトになるも続く1番奥山が中島から四球を奪い今試合初出塁。しかし続く西村のサードゴロで奥山が二塁でフォースアウト。二死1塁と反撃ムードがしぼんでいく。しかし続く3番永岡がセンターへヒットを放ち、続く矢部が四球を選び満塁。和中に初めての、そして最大のチャンスが訪れた。次の打者は5番戸田。市岡中エース中島はコントロールが定まらずここで四球。続く中筋にも四球を与え和中が逆転。形勢が一気に逆転した。ここで更に市岡中を追い詰めたい和中だったが中島は踏ん張り続く小笠原を三邪飛に打ち取る。
7回裏、9番から始まる市岡打線は一死後、富永・中島の連続ヒットで同点のチャンスをつかむが、得点を急ぎホームでタッチアウト。
それでも諦めない市岡中は和中打線を7回以降奥山への四球一つと完璧に抑え2−1と和中リードのまま九回裏を迎えた。
先頭の七番島道が鋭い打球を放った。しかし遊撃手西村のグラブに虚しく収まる。続く栂井の放った強烈なゴロもエース戸田の好プレーに阻まれる。二死になった。9番石田の放った打球は弱々しく投手への飛球に。誰もが試合終了と思った瞬間、戸田がまさかの落球。試合は終わらない。これに和中は動揺したのか、続く富永の強烈なゴロを遊撃手西村がはじき、その上送球の乱れの間に石田・富永が一気に三塁・二塁へ進塁。試合終了が一転、同点どころか逆転サヨナラの場面へ。続く打者はこの日安打を放っている強打者中島。市岡中応援団からは絶叫のような声援が届く。
続く中島が戸田から鋭い打球を放った。打球は三遊間へ飛ぶ。同点かと思われたが、この打球を遊撃手西村が好捕。そのまま二塁走者をアウト。関西大会最後を飾る大熱戦が終わった。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 得点 H E
和歌山中 0 0 0 0 0 2 0 0 0 2 2 6
市岡中 0 1 0 0 0 0 0 0 0 1 6 0

和歌山中 打数 得点 安打 四死球 三振 失策 市岡中 打数 得点 安打 四死球 三振 失策
8 奥山 2 0 0 2 0 0 9 富永 5 0 1 0 0 0
6 西村 4 1 0 0 1 1 1 中島 4 0 1 0 0 0
3 永岡 4 1 1 0 2 0 7 田中 4 0 1 0 0 0
2 矢部 3 0 0 1 1 0 5 松野 4 0 0 0 0 0
1 戸田 3 0 1 1 0 2 2 松本 3 0 0 1 0 0
5 中筋 3 0 0 1 2 2 4 町田 4 1 2 0 1 0
7 小笠原 4 0 0 0 0 0 6 島道 4 0 1 0 0 0
4 小川錦 4 0 0 0 1 1 8 栂井 4 0 0 0 0 0
9 小川豊 3 0 0 0 1 0 3 石田 4 0 0 0 0 0
30 2 2 5 8 6 36 1 6 1 1 0



午後三時半。観衆の見守る中、グラウンド中央に現れたのは大阪朝日新聞寄贈の紫の優勝旗である。優勝旗を持つ平岡審判長の数歩前には威儀を正して立つ和中矢部主将。平岡から矢部へ優勝旗が渡された。既に日は西に傾き橙の色が紫の旗を、赤ら顔の選手を眩しく照らす。グラウンドでは観客が声を呑んでただただ拍手を送り続ける。第一回全国中等学校優勝野球大会関西地区代表は和歌山県立和歌山中学校であった。


第1回全国大会出場メンバー

第一回大会関西予選出場校
校名 府県 現校名 甲子園出場回数(初出場・最近出場) その他
大阪市工 大阪 都島工 01回(1951夏)  
八尾中 大阪 八尾 10回(1926春・1959夏) 準優勝1
市岡中 大阪 市岡 21回(1916夏・1995春) 準優勝1
耐久中 和歌山 耐久 なし  
明星商 大阪 明星 11回(1917夏1972夏) 優勝1
高野山中 和歌山 高野山 2回(1966春・1988夏)  
和歌山中 和歌山 桐蔭 36回(1915夏・2015春) 優勝3準優勝4
大阪商 大阪 大商学園 なし  

1.はじまりの頃


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