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1.はじまりの頃

1.1野球伝来
和歌山中学(以後和中)に野球が紹介されたのは1897(明治30)年、一高が外国人チームのアマチュア倶楽部を破り黄金時代を築いていた頃のことである。この年の9月に赴任してきた坂口昴と香川直勝の二人の教師が、和歌山城の砂の丸広場でボールとバット用意して指導をしたのが和中の野球の始まりである。当時の和中の野球は紺の脚絆や足袋跣、裸足で走り回り、教師の打った打球を競って拾うというもので、捕手がミットを付けた他は皆素手であった。大学野球が活発になるに連れ野球をやる生徒も増えていったが、運動部として認められるまでには至らず、各クラスにチームを作って校内で試合をしている程度であった。ただ偶に他校との試合もあったようで1899(明治32)年頃に岸和田中学や大阪桃山中と試合をしている。なお、両試合とも惨敗を喫した。


現在の砂の丸広場

その後、第一回早慶戦出場メンバーで、第2・3回の甲子園出場メンバー柳進之助の叔父である柳弥五郎と、アメリカ人アーサー・ヘールがコーチとして招かれ、シートノック、バント、スライディングなどの指導を受ける。これにより和中の野球技術は急成長していった。この当時、紀南にある田辺中でも野球が始められており、キャッチボールやノックを楽しんでいた。1903(明治36)年、その田辺中が和歌山中に申し込んできて、6月6日に砂の丸広場で試合が行われた。結果は20対10で和中が初陣の田辺中を退け勝利している。当時の選手も脚絆や地下足袋、裸足のままで、腰に兵児帯を巻きつけて染模様の日本手拭をぶら下げているような格好だった。捕手に至っては和中は針金のマスク、田辺中は剣道のお面を使用している。なおこの試合では和中のメンバーが足りず、卒業生二人を加えて行われている。また当時の田辺中のメンバーには後の和歌山市長の鈴木康四郎(二塁手)がいた。高野山中で野球が始まったのもこの頃である。

当時の野球は、一高が早慶に相次いで負け、一高時代から早慶時代に入ろうとしていた時代で、全国大会もなく、まだまだ野球に対する世間の評価は高くなかった。その為松の木に球が当たって枯れてしまうなどといった苦情が来るなど、和中野球部に対する市民からの理解は少なかった。

1.2野球禁止令
1906(明治39)年11月、和中は20校程が出場していた三高主催の関西大会に出場した。この大会で和中は大阪の強豪堂島中(現・北野高。1949春優勝校)を3対2で破る大金星をあげた。この勝利により和中は関西の一流校と肩を並べることとなった。

堂島中を破り、さあこれからという時、突如学校当局から野球禁止が通告された。当時の校長は成富といい、極めて厳格な人物で、高知の海南中でスパルタ式教育を実践しようとして生徒側と衝突した経緯のある校長である。成富校長は現在の桐蔭高のある場所にあった寄宿舎の赤レンガ塀の上にガラスの破片を並べ、窓に鉄格子をはめるなど上から押さえつける教育を行った。当然、生徒側とは上手く行かず、特に野球部員に対しては反対する生徒側の首謀者という理由で先述の対堂島中戦で遊撃手として活躍した出来助三郎(5年生)などを根こそぎ退校にさせ、野球禁止令を発令した。これにより、校庭の片隅で細々とキャッチボールをするぐらいしかできなくなり、野球をやる生徒は校長に革命家とまで言われた。この2ヶ月前には応援合戦が加熱し早慶戦が中止され、この5年後には東京朝日新聞で野球害毒論が展開されている。野球に対する世間の目はまだ冷たい時代であった。

この頃、和歌山県内では田辺中以外にも和歌山師範や耐久中が台頭していた。和歌山師範は、先述の和中対田辺中の試合に卒業生として出場していた中牟田斎によって鍛え上げられ、明治30年代終わり頃に、当時の兵庫の強豪御影師範に1-0で勝利した。また、耐久中は発足当時は適当な運動服に飛脚用の黒脚絆と黒足袋、捕手がキャッチャーミットをつけていた以外は野手全員素手という状況であったが、明治41年夏に和歌山県出身の早大生で結成した熊野倶楽部を校庭に招き、5-3で勝利している。


1914年、砂の丸広場にて
中央が大村氏

1.3野村校長と野球部復活
和中野球部に転機が訪れたのは1913年、一高・東大出身の野村浩一が校長として赴任してきた時である。野村校長を迎えに和歌山市駅に銃を持って隊列を組んで行った生徒たちは、南海電車から和服にカンカン帽の小さな体の校長が威風堂々国賓の閲兵式の様に降りてきたのを見て、成富校長よりも更に厳しくなるのではないかと落胆した。しかし野村校長は情弱安逸な校風に納得がいっておらず、新任早々講堂での式典で正課の銃剣道以外のすべての運動競技を取り入れて、朗らかな明るい校風を作るべきだと立て板に水のごと説いた。学業が疎かになり、進学率が下がると父兄や校外から相当非難が来たが「運動のために学業が下るようでは何をやらせても駄目だ。ウラナリ青瓢箪が日本の将来を背負って立てるか」と切り捨てた。これに生徒たちは長いトンネルをようやく抜けたような気がしたという。

野村校長は当時の部員に「犬養首相のように凛としていて、弁舌も巧み。豪放磊落な名校長」と評されるほどの人物で、この校長の指揮のもと、貧弱と化していた野球部は成長していった。10人ほどいた部員は昼はグラウンドで猛練習、夜は野球学。時には辞書を片手に英語の野球技術書を読みふけっていた。OB・市民・教員もこの猛練習を手伝った。野村校長は自ら主審を務め、教員は野球部長の中本實をエースにチームを結成し、毎日練習相手となった。この職員チームは案外強かったらしく岸和田中(現・大阪府立岸和田高)を大差で破るほどであった。野球部長の中本實は広島高師出身で母校の附属中への就職が決まっていた所を野村校長が広島の下宿先まで乗り込んで居座り、強引に口説き落として招き入れた人物である。

「紀州には全国に誇るものが何もない。よし、日本一の野球チームを作ってやろう」と奮起した出来助三郎の尽力により、1913年の冬休みに慶大の高浜茂選手、1914年春休みに懸山選手を招き、本格的な練習方法を学びユニフォームを作った。1914年夏休みからは、野村校長が和歌山市役所への就職を約束に、春に卒業したばかりの早大主将、大村隆行を招いた。大村は飛田穂洲直伝の滑り込みやスクイズの方法などを指導した。当時の部員花岡堅吉は慶大・早大双方の選手に教わったため、カーブの打ち方の指導が違い(慶応は曲がる前に打ち早稲田は曲がってから引きつけて打つ)戸惑ったという話や、大村によって本当の野球を学んだといった話を残している。正月に1日休む以外はひたすら年中練習に励み和中はどんどん成長していった。

この頃には和歌山に大毎球団(後の大毎野球団。日本初のプロ野球球団日本運動協会などと試合をした1920年代を代表するセミプロチーム)や天狗倶楽部(冒険作家押川春浪が作った社交団体。野球殿堂入りした人物を5人輩出している)、大阪市岡倶楽部などが訪れ、和中と試合をしている。天狗倶楽部には惨敗したものの大毎球団には1914年7月に23-5と大勝している。大毎球団や大阪市岡倶楽部はその後も和歌山を定期的に訪れ盛んに試合を行った。大毎球団に対してはこの後も小野三千麿が大毎球団に入団するまで連勝している。また、出来助三郎の提唱で試合相手としてトンボ倶楽部なるものを組織し、毎週日曜に試合を行っている。これらのチームに精神的にも技術的にも指導を受けたことで、和中は更に成長していった。

1.4強豪和歌山中
1914年8月、新生野球部初の大会である第二回美津濃運動具店主催の大会に出場した。この大会で当時の関西の強豪神戸一中(現・神戸高。1919夏優勝校)に2-5で惜敗したが「新進和中侮るべからず」と評され、敗戦はしたものの初めて広い球場で試合を行ったことで貴重な体験をすることとなった。そしてこの年の秋には大阪の名門市岡中と対戦し7-6で勝利。これらの試合が評価され、京都を中心に近畿の一流チームだけが招かれる三高主催の関西大会に招待された。「どうやら和中の存在が認められた」と関係者は大いに張り切り、和服に袴姿、用具入れには海水浴用バスケットを持参し大会に乗り込んだ。。対戦相手は当時の東海の雄、岡崎中。大村コーチの指揮のもと、選手は打ちに打って七回7-0で敵を圧倒した。この大勝に野村校長は大喜びで祝杯を上げ、万歳をしながらふすまをぶち破った挙句、階段から落ちて手を骨折した。

2.全国大会始まる

旧制和歌山中学野球部史

野球回廊

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