12.その後
33年度が終わり、中京商では吉田や杉浦、明石中では楠本や峯本、山田が卒業した。3校が激しく頂点を争った時代のその後を紹介する。
中京商(現・中京大中京)
吉田、杉浦の卒業した後は、捕手の野口明の弟である野口二郎が頭角を現し、37夏38春と広島商に次ぐ史上二校目の夏春連覇を達成した。37夏は33年以来の夏の大会出場であり、これで夏は19連勝で負けなしである。それ以後戦前は夏の大会に出場していないため、中京商は夏に一度も負けることなく終戦を迎える。戦後もコンスタントに出場を重ね、54夏、56春、59春、66春夏と優勝を重ねている。名前を中京、中京大学付属中京と名前を変えた09夏、66夏以来43年ぶりの夏の決勝へたどり着くと日本文理との打撃戦の末、史上最多となる夏7度目の優勝を果たした。春の優勝回数4回は歴代2位。合わせて11回の優勝を果たしている。勝利数も全国最多である。(近年の成績についてはこちら)
中京商の選手
中京商を卒業した吉田は杉浦と共に明治大学へ進学した。当時明大の監督だった岡田源三郎は中京商が優勝する前からコーチをしに来ていた。その関係から、初優勝メンバーの大鹿がまず進学し、続いて恒川・村上、そして吉田と杉浦と続いたのである。ちなみに明大には甲子園で対戦した太田(広島商)、尾茂田(松山商)などもいた。その後も明大には中京商からの入学が続く。その中で、吉田の1学年上の捕手桜井は慶大に進んでいる。
吉田と杉浦は早速1年目から出場を果たす。春季リーグは当時のルールの関係もあり登録されることはなかったが、1934年9月8日の秋季リーグ開幕戦(対法政)には二人そろって出場した。当時の六大学は人気が最盛期であり、この日も定刻前からファンが神宮球場に押し寄せ、超満員。スターティングメンバーの発表で吉田の名前が呼ばれると、三塁側明大応援団を中心として、場内のファンから大歓声が響いた。帽子も新聞も空中に舞う。二十を超えるカメラマンが吉田にレンズを向けた。対する投手はのちの200勝投手若林忠志。得意のドロップが冴え被安打は2に抑え、奪った三振は5。四球やエラーなどもからみ3失点はしたものの、杉浦が初回にタイムリーを打つなど味方が若林から4点を奪い、勝利。吉田はデビュー戦を完投勝利で飾った。甲子園で大歓声の中、多くの大試合を潜り抜けていたが、神宮では独特の圧迫感を覚えたとのこと。このシーズンは立教・慶応からも勝利を挙げ3勝2敗。防御率は3.74。このころは1試合に必ず1度は集中打を浴びることがあり、慶大戦では11四球を与えている。杉浦の成績は10試合に出場し、打率.250 0本塁打5打点。その後、吉田は36年春に7勝をあげるも、肩を壊し外野手に転向。主将にもなり、38年春には.345を記録しリーグ6位になった。この二人が上級生になった1937年・38年に明大は史上初の4連覇を達成している。
大学を卒業後、吉田は藤倉電線に就職。投手に復帰し、39年の都市対抗野球で優勝した。杉浦は大学院に進学し、海草中の監督に就任。39夏の甲子園で優勝している。終戦後に杉浦は中部日本(現・中日)に入団。8年間長距離打者として活躍し、監督にも就任した。
その他、当時の選手では芳賀直一・村上重夫・野口明・鬼頭数雄・加藤信夫・伊藤庄七が選手として、桜井寅二がコーチとしてプロの世界に進んでいる。プロ入りした選手の中では、野口明が37秋に最多勝、42年に打点王を獲得した。また、鬼頭数雄も40年に首位打者を獲得している。
1931-1933年の甲子園出場メンバーの卒業後(判明分)
名前 | 1931-1933 | 卒業年度 | 卒業後 | プロ野球歴 | 没年 |
芳賀 直一 | 控え | 1931? | 名古屋軍に在籍。 | 36秋-43名古屋 | |
鈴木 ム四 | 4番中堅 | 1931 | 後にNHKに入局。 | ||
大鹿 繁夫 | 1番左翼 | 1931 | 明大へ進学。 | 1935.02.08腸チフスにより病死 | |
桜井 寅二 | 3番捕手・主将 | 1932 | 慶大へ進学。後に東映コーチ。 | 1997.03.11死去 | |
恒川 通順 | 2番二塁 | 1932 | 明大へ進学。後に藤倉電線、明電舎。中京大コーチ。 | ||
吉岡 正雄 | 6番三塁・投手 | 1932 | 後に三井銀行に入行。 | ||
村上 重夫 | 1番中堅 | 1932 | 明大へ進学。後にライオン・朝日に在籍。 | 40-41ライオン・朝日 | 1945.07.03レイテ島にて戦死 |
林 薫 | 9番右翼 | 1932 | 後に名古屋市東区通産局。 | ||
鈴木 正明 | 控え | 1932 | 後に荒川ノーシン(現・アラクス)。 | ||
後藤 竜一 | 控え一塁 | 1932 | |||
吉田 正男 | 3番投手・主将 | 1933 | 明大へ進学。後に藤倉電線。 | 1996.05.23死去 | |
杉浦 清 | 4番遊撃 | 1933 | 明大へ進学。戦後中日などに在籍。 | 46-50中部日本・中日 51大洋 52-53国鉄 | 1987.08.22死去 |
野口 明 | 8番捕手 | 1934 | 明大へ進学後、中退し、セネタースなどに在籍。 | 36春-37秋.42-4セネタース・大洋・西鉄 44-48阪急 49-55中日 |
1996.10.05死去 |
田中 隆弘 | 5番一塁 | 1934 | 後に愛知県で中学校教諭。 | ||
福谷 正雄 | 2番三塁 | 1934 | 戦死 | ||
鬼頭 数雄 | 9番中堅 | 1934 | 日大へ進学後、大東京・ライオン、南海に在籍。 | 36春-40大東京・ライオン 41南海 | 1944マリアナ諸島沖で戦死 |
榊原 明一 | 控え | 1934 | 同志社大へ進学。後に半田市会議員。 | ||
加藤 信夫 | 控え | 1934 | 専大へ進学後、中退しタイガースへ入団。 | 36春-37秋タイガース | 戦死 |
前田 利春 | 控え左翼 | 1934 | 後に富士火災(現・AIG損害保険)。 | ||
神谷 春雄 | 6番二塁 | 1935 | 日大へ進学。 | 戦死 | |
大野木 浜市 | 1番右翼 | 1935 | 後に日立鉱山。 | 2004.07.05死去? | |
岡田 篤治 | 7番右翼 | 1935 | 後に日清紡。 | ||
花木 昇 | 控え | 1935 | 戦死 | ||
伊藤 庄七 | 控え | 1935 | 明大へ進学。戦後毎日、東急・東映、阪急に在籍。 | 50-53毎日 53-54東急・東映 55中日 | 1999.03.06死去 |
明石中(現・明石)
翌年も25回を投げ切った中田、捕手の福島、一塁手の横内、二塁手嘉藤などレギュラー陣が残り、翌34春にはベスト8に入ったが、夏は兵庫予選決勝で神戸一中と延長21回の激闘の末サヨナラ負け。翌夏1935年も予選決勝で育英商(現・育英)に敗退し戦前は夏の大会に出場することはできなかった。戦後は横内が監督になり47春(0勝)、50年には延長25回の33年以来となる夏の甲子園出場を果たした(0勝)。横内退任後も60夏(ベスト8)、84夏(1勝)、87春(1勝)夏(0勝)と甲子園に出場をしている。平成に入ってからは出場がなく近年の最高成績は12春季近畿大会ベスト4。(近年の成績についてはこちら)
明石中の選手
楠本は慶大に進んだ。投手としてではなく外野手として活躍した。剛球楠本は19歳の夏で終わっていたのである。中田も慶大へ進学し、二人共に慶大の中心として活躍。39年・40年と上級生の頃には主将も務め、39年秋は優勝、40年春も3校同率ではあるが1位に輝いた。楠本は通算85試合に出場し66安打。打率.232。中田は大学でも投手としてプレーし、中京商の主将だった桜井とバッテリーを組むなどして通算15勝を挙げた。
部長だった竹山は35年に異動。竹山と選手との交流は晩年まで続き、87年の明石高選抜出場の際にも共に観戦しに行った。95年1月に99歳没。プロへは山田と松下繁二が進んでいる。
1931-1933年の甲子園出場メンバーの卒業後(判明分)
名前 | 1931-1933 | 卒業年度 | 卒業後 | プロ野球歴 | 没年 |
桜井 義継 | 4番捕手 | 1931 | 明大に進学。 | ||
丸尾 卓 | 8番二塁 | 1931 | |||
藤井 勝 | 6番遊撃 | 1931 | |||
梶原 利夫 | 1番中堅 | 1931 | |||
玉田 恭 | 9番右翼 | 1931 | |||
岡本 正次 | 控え | 1931 | |||
大橋 良計 | 控え | 1931 | |||
楠本 保 | 3番投手 | 1933 | 慶大に進学。 | 1943.07.23中国で戦死 | |
峯本 三一 | 2番遊撃 | 1933 | |||
山田 勝三郎 | 1番中堅 | 1933 | 後に阪急、セネタースに在籍。 | 36春-41阪急,46セネタース | |
深瀬 正 | 6番左翼 | 1934 | |||
中田 武雄 | 4番投手 | 1934 | 慶大に進学。 | 1943.07.22ソロモン諸島沖で戦死 | |
田口 重雄 | 7番左翼 | 1934 | |||
福島 安治 | 8番捕手 | 1935 | |||
横内 明 | 2番一塁 | 1935 | 卒業後新京満州国。後に明石中監督に就任し甲子園出場。 | 2004.10.12死去 | |
嘉藤 栄吉 | 6番二塁 | 1935 | 卒業後新京満州国。 | 2008.06.28死去 | |
永尾 正己 | 8番三塁 | 1935 | 卒業後新京満州国。 | ||
松下 繁二 | 控え | 1935 | 法政大に進学。卒業後阪神に入団。 | 41阪神 | 戦死 |
吉岡 辰雄 | 控え | 1935 | |||
松下 宗一 | 控え | ? | |||
橘 荘一 | 控え | ? |
松山商
34年は春夏ともに出場がなかったが35夏、32年にベンチ入りをしていた菅利雄、筒井良武、亀井巌に加え、のちにプロ入りする千葉茂(巨人)、中山正嘉(金鯱他)、伊賀上良平(タイガース他)、筒井修(巨人)、高久保豊三(金鯱)らを擁して悲願の夏優勝を果たした。その後は夏将軍の異名をとり、50夏、53夏、69夏、96夏と優勝し、公立校として最多の勝利数を誇っている。一方、春は戦後5回の出場にとどまっており、優勝もない。最後の甲子園出場は01夏(ベスト4)である。近年の最高成績は18夏県大会ベスト4。(近年の成績についてはこちら)
松山商の選手
エースの三森秀夫は卒業後、法政大学へ進学。六大学へは他にも高須、岩見(早大)、尾茂田、藤堂(明治大)、景浦(立教大)などが進んでいる。このうち高須は35春に首位打者を獲得し通算打点65は現在でも歴代10位である。高須・尾茂田・景浦などがプロへと進み、高須・尾茂田がイーグルス、景浦がタイガースへ入団した。タイガースへ進んだ景浦は4番を打ち、投手も兼任して36秋に最優秀防御率と最高勝率。37春と38春に打点王、37秋に首位打者を獲得するなどタイガースの看板打者として活躍した。三森も在学中に巨人と契約したが、周囲から反対され、入団はしなかったようである。亀井は戦後松山商の監督となり53夏には全国制覇を果たしている。
1931-1933年の甲子園出場メンバーの卒業後(判明分)
名前 | 1931-1933 | 卒業年度 | 卒業後 | プロ野球歴 | 没年 |
古泉 達雄 | 8番一塁 | 1931 | |||
尾茂田 叶 | 4番中堅 | 1931 | 明治大に進学。後にセネタースに在籍。 | 37春-39セネタース | 1997.01.07死去 |
三森 秀夫 | 5番投手 | 1932 | 法政大に進学。後に巨人と契約するも入団せず。 | 36巨人 | |
藤堂 勇 | 3番捕手 | 1932 | 早大に進学。 | 早大在学中に死去 | |
山内 豊 | 7番一塁 | 1932 | |||
尾崎 晴男 | 4番二塁 | 1932 | |||
景浦 将 | 6番三塁 | 1932 | 立教大に進学。中退後タイガースに在籍。 | 36春-39,43タイガース・阪神 | 1945.05.20フィリピンで戦死 |
高須 清 | 1番遊撃 | 1932 | 早大に進学。イーグルス、パシフィックに在籍。後に共同印刷。 | 39イーグルス 46パシフィック | |
宇野 文秋 | 9番左翼 | 1932 | |||
岩見 新吾 | 2番中堅 | 1932 | |||
三津田 希典 | 2番左翼 | 1933 | |||
中矢 一 | 7番投手 | 1934 | |||
池内 尚正 | 8番二塁 | 1934 | |||
水口 勝義 | 3番三塁 | 1934 | |||
藤井 豊次郎 | 控え | 1934 | |||
杉田 辰見 | 4番捕手 | 1935 | |||
菅 利雄 | 6番一塁 | 1935 | 立教大に進学後、イーグルスに在籍。 | 39-41イーグルス・黒鷲 | |
筒井 修 | 9番遊撃 | 1935 | 卒業後、巨人に入団。引退後はプロ野球審判。 | 36春-37秋.41巨人 | 1990.11.03死去 |
亀井 巌 | 控え | 1935 | 明大に進学し主将。松山商監督を経て、ヒシヤスポーツ常務。 | ||
成重 修逸 | 控え | 1935 | |||
筒井 良武 | 控え | 1935 | 後に大東京、イーグルスに在籍。引退後は東洋通管社長。 | 36秋大東京 37春-37秋.39イーグルス | |
中山 正嘉 | 控え | 1936 | 卒業後名古屋金鯱などに在籍。引退後に中山物産社長。 | 37春-41金鯱・大洋 50-51広島 | 1994.07.04死去 |
田村 岩雄 | 控え | 1936 | 卒業後に日銀を経て愛媛信用金庫常務理事。 | ||
土屋 久吉 | 5番右翼 | 1936 |
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