新富 卯三郎(しんとみ うさぶろう)

1915.02.13生 戦没(1945.08.01) 右投右打 小倉工-門司鉄道局-大日本東京野球倶楽部 1939.10.27入団

 

所属 39-41阪急

背番号 27(39-41)

 

初出場 

初安打 

初本塁打

最終出場

 

野手成績

年度 球団 登録 試合 打席 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 打率 長打率
1939 阪急 外野 6 6 6   0 0 0 0 0 0 1 0   0 0 0 0 0   .000   .000
1940 阪急 内野 74 249 222   18 34 5 0 2 45 21 6   3 2 22 0 37   .153   .203
1941 阪急 外野 67 265 233 1 23 54 10 5 3 83 28 7   2   29 0 26   .232 12 .356
通算 3年   147 520 461 1 41 88 15 5 5 128 50 13   5 2 51 0 63   .191   .278

 

ポジション
年度 球団 登録 試合 投手 捕手 一塁 二塁 三塁 遊撃 外野   失策
1939 阪急 外野 6     1           0
1940 阪急 内野 74     68       1   2
1941 阪急 外野 67     13       55   4
通算 3年   147     82       56   6

思い出の名選手を語る〜三宅大輔〜 より

門司鉄道局時代は、三塁手だった。1934年、メジャーリーグ戦抜が来日。そのとき結成された大日本東京野球倶楽部に入団。

その後も引き続き巨人軍に参加し、第一次アメリカ遠征にも参加した。

新富が千葉県の谷津海岸の練習場に最初に訪れた日、私は彼に三塁の守備練習をさせて見せた。そして「これはいけない」と思った私は、新富に対し「君は内野手の素質はないと思う。明日から外野の練習をしたまえ」といった。新富は不安そうに「私は外野をしたことはありません」とおずおずしながら答えた。私は「だから練習をするのさ」と冷酷に言い放った。「外野の練習には何が一番必要ですか」と彼は反問した。私は「外野の練習で一番必要なことは、打撃術の練習だ。プロ野球では、外野手は三割以上の打撃力がなければ資格がないぜ」といった。「僕になれますか」と新富。「君の心がけ次第だ。注意しておくがねえ、うまくなるのは君自身なんだ。他人がうまくしてくれると思うと間違いだぜ」と私は付け加えた。私は彼の守備力には、少しも期待を持たなかったが、彼の打撃力にはよい素質があると考えた。ただし、当時の彼の打撃フォームはよくなかった。身長五尺四寸ほど(約164cm)体重17貫(約64kg)の彼は、短くバットを持ってただ球に当てるだけの打法であった。私は彼に「君のその打法を全然忘れてしまいたまえ、そして別の打ち方を研究するんだ。ただし、君の選球眼は大事に育てるんだぜ。」と注意した。

その翌日からの彼の打撃術についての研究は、文字通り寝食を忘れて精進した。もっとも、巨人軍の第一期生は、誰も研究、練習が熱心であった。彼らの数人は、真夜中に起きて、シャツ一枚になって、広間でバットのスイングや、投手のフォームを研究していた。夜中に変な物音がするので、私が起きて行って見ると、必ず野球の研究をしていた。しかもそれが毎夜のことであった。そして、その人々の中には、必ず新富がいた。

私は多くの熱心な野球選手を知っている。しかしその中で、新富ほど熱心であった人は少ないと思っている。彼は合宿練習の約一ヵ月後には、ほとんど近代的な打撃法を会得してしまった。第一回巨人軍渡米の時には、彼は終始、四番打者として立派に活躍した。特に彼の最も好ましい特長は、アメリカにおいてわれわれの技術よりも格段に優れている、コーストリーグの党首に対しても、堂々と真正面から打ちまくった点である。

一般打者の大多数は、自分が打ちよい投手のときに、三本も四本も安打を放って、自身の打撃率を向上せしめるが、苦手の投手に出会うと、全く別人のように萎縮してしまうものである。しかるに新富は、日によって場か当たりもしない代わりに、他のものがばたばたと凡打に退くような場合に、突然大本塁打などを打ち飛ばして、味方を勝利に導くことが度々会った。彼のバットのスイングは美しかった。それゆえ、体格偉大の人々よりも、はるかに遠方に球を打ち飛ばすことができた。彼の打撃術は、日本が生んだ打者の中で、最も優れた人々の中の一人であると思う。彼はその熱心な研究と努力とによって、打撃術に成功した人である。

彼の外野の守備は、特に優れているとは思われなかったが、これも練習熱心のためにプロ選手として、恥ずかしからぬ程度の、一人前の技術は習得していた。彼は巨人軍における二年の間に、最もよくその惰力を発揮したが、兵役に召集せられ、除隊となって阪急に加入し、本来の才能を回復しない間に、戦争のために応召し、そして戦死してしまった。

彼は日本が生んだ、名選手の一人であるが彼が名選手であった期間が短かったので、彼の真の技術を記憶に残している人々がきわめて少ないのはかえすがえすも残念であると私は考えている。もしも、彼のために兵役と戦争とがなかったことを想像すれば、彼はその後十数年間も、あの美しい打撃フォームをファン諸君に見せることができたであろうと私は思っている。新富や田部や沢村その他の優秀野球選手の戦死の報に接したとき私は、戦争とは秀才も凡才も十束一とからげとして、殺してしまうものであるという点をつくづく恨めしく感じた。

出典 ベースボールニュース1950.3.15号

 

 

情報提供:べーすぼーるさん

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