高田 勝生(たかだ かつお)
1904生 右投右打 京都三中-同志社大-山陽電鉄
所属 39-40ライオン
38秋-40ライオン監督 43南海監督
背番号 30(38秋-40.43)
初出場
初安打
最終出場
野手成績
年度 | 球団 | 登録 | 試合 | 打席 | 打数 | 妨 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗刺 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺 | 打率 | 順 | 長打率 |
1939 | ライオン | 監・内 | 1 | 1 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 1.000 | ||||
1940 | ライオン | 監・内 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | ||||
通算 | 1年 | 2 | 1 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 1.000 |
ポジション | ||||||||||||
年度 | 球団 | 登録 | 試合 | 投手 | 捕手 | 一塁 | 二塁 | 三塁 | 遊撃 | 外野 | 失策 | |
1939 | ライオン | 監・内 | 1 | 1 | 0 | |||||||
1940 | ライオン | 監・内 | 1 | 1 | 0 | |||||||
通算 | 1年 | 2 | 1 | 1 | 0 |
監督成績
年度 | 球団 | 試合 | 勝利 | 敗北 | 引分 | 勝率 | 順位 | |
1938秋 | ライオン | 40 | 19 | 20 | 1 | .487 | D | |
1939 | ライオン | 96 | 33 | 58 | 5 | .363 | G | |
1940 | ライオン | 104 | 24 | 76 | 4 | .240 | H | |
1943 | 南海 | 48 | 17 | 30 | 1 | .362 | G8 | * |
通算 | 4年 | 288 | 93 | 184 | 11 | .336 |
*開幕から7/27まで
経歴
山陽電鉄を経て明石中の監督に就任。中京商と延長25回を演じるなど明石中黄金時代に貢献。38年7月6日にライオン軍監督に就任すると40年まで指揮をとり、38秋には球団初の5位まで上昇させる。その後43年に南海の監督に就任も途中で退団。その後神戸電鉄運輸部長などを務めた。
対中京商戦延長25回についてのコメント(『全国高等学校野球選手権大会史』(1958)より)
昭和八年、第十九回大会の準決勝で、中京と明石が二十五回の延長戦を演じて、今年は二十五年目になる。当時、私は明石中学の監督(当時はコーチといった)をしていた。球界までの経過についてはあまり頭に残っていないが、たしか十六回の表だったと思う。虫で、二塁打が出た。チャンス到来である。しかも次打者は四番楠本だ。定石通りやってもラチがあかないと考えた私は、ここでバント作戦をやめてケンコン一てき、楠本に思い切って振り回すことを命じた。楠本は、よしとばかり張り切って、ウエーティングサークルの横で、空振りを始めた。その時、バット拾いに出ていった補欠の田口の頭にどうしたはずみか、楠本の空振りのバットが当り、田口は昏倒した。顔いっぱいの血である。
楠本の家は貧しかった。そしてこの田口は、楠本の父親の主人筋に当る。楠本の顔色はみるみる変わっていった。「どうや、どうや」と田口に呼びかける声もうわずっている。私はとっさにこれはいかん、と思った。私のケンコン一てきの決意も、たちどころに変わって、バントで送らすことにした。「落ちつけよ、田口の傷はたいしたことないぞ。ていねいにバントで送るんだよ」私は楠本にこう命じた。バントは割合良くて、三塁よりに転がった。だが、守備の巧い中京の吉田投手は、なんのちゅうちょもなくこれを三塁に投じた。ショート・バウンドの球だったが、三塁手の大野木君が実に上手くさばいて奏者にタッチした。無死二塁のチャンス一転、一死一塁とかわった。試合は、それからいつ果てるともみえず続いていった。
二十五回裏、誠にあっけない幕切れだった。このあたりになると、双方とも精根を使い果たし、動作も鈍く、おそらく満足なプレーはできていなかったと思う。サイレンが鳴り響いても、明石の選手たちはへたばって、だれも立ち上がらない。私やベンチのものが抱き起こして、宿舎に引き上げたころ、長い夏の陽も落ちて、薄暮が迫っていた。山内校長が泣きながら選手をなぐさめていた。しかし、私たちはただボオーとして涙も出なかった。宿舎を取り巻く数千のファンがいつまで経っても立ち去らず夜のふけていったのを覚えている。
ところが翌日、明石へ帰ったときがたいへんだった。負けて帰る私たち一行を迎えて、明石駅頭は市民でいっぱい。まるで凱旋将軍を迎えるように盛大であった。、
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