坪内 道典(つぼうち みちのり)36〜48年:坪内道則

1914.4.7生 1997.9.16没 164cm 60kg 右投右打 松山商-天王寺商-立教大 1936.9.19入団

 

所属 36秋-44:大東京・ライオン・朝日 46-48:ゴールドスター・金星 49-52:中日・名古屋

    44:朝日監督 46-47:ゴールドスター・金星監督 48:金星助監督 49-50:中日助監督 51-53:中日監督

    54:中日助監督 60-62西鉄コーチ 65-66:中日ヘッドコーチ 67:中日二軍監督 72:ロッテ二軍監督 79-86:中日寮長

背番号 16(36-37) 8(37-43) 30(46-47) 1(48-51)

      1(52-53) 50(54) 55(60-62) 51(65-66) 36(67) 54(72) 72(79-82) 87(83-86)

 

初出場 1936.9.18対タイガース 5番センターで先発出場(4打数2安打1盗塁)

初安打 1936.9.18対タイガース

初本塁打 1937.3.29対阪急

タイトル 盗塁王2回(41.42)

表彰 ベストナイン2回(47外.48外) 

    殿堂入り(92)

    新憲法発布記念特別表彰(1947)

記録 25試合連続安打(1948.6.28〜9.5) 

    イニング最多盗塁 3 (1943.10.3)(日本記録) 

    シーズン最小三振(300打数以上) 6 (1946) (日本記録)

    通算1000試合出場 1948.9.12(1人目)

    通算1000本安打 1948.9.28対急映 赤根谷飛雄太郎から(1人目)

野手成績

年度 球団 試合 打席 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 塁打 打点 盗塁 盗塁刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 長打率 失策

ポジション

1936秋 大東京 28 117 103   13 27 1 0 0 28 4 13   2   12 0 13   .262 12 .272 3 外:28
1937春 大東京 44 155 145   16 35 5 1 1 45 8 11   0   10 0 22   .241 30 .310 8 外:41
1937秋 ライオン 49 217 199   24 47 6 2 1 60 23 6   2   16 0 17   .236 36 .302 5 外:49
1938春 ライオン 35 162 137   21 35 3 1 1 43 13 6   1   23 1 10   .255 23 .314 3 外:35
1938秋 ライオン 40 193 174   29 37 4 1 2 49 14 5   2   15 2 11   .213 36 .282 2 外:40
1939 ライオン 96 440 395   50 89 10 2 1 106 27 11   9 0 32 4 21   .225 36 .268 7 外:96
1940 ライオン 102 458 394   30 76 14 1 1 95 17 22   6 1 55 2 23   .193 39 .241 1 外:102
1941 朝日 81 376 316 1 30 75 10 1 2 93 20 26   8   49 2 12   .237 7 .294 4 外:81
1942 朝日 104 466 407   50 98 12 4 0 118 18 44 19 7   47 5 17   .241 5 .290 4 外104
1943 朝日 84 382 333   48 78 13 4 1 102 23 36 15 2   46 1 20   .234 7 .306 2 外:84
1944 朝日 35 155 136   22 46 11 2 0 61 11 16 1 4   14 1 4   .338 3 .449 5 三:7 外:29
1946 ゴールドスター 103 442 393 1 60 124 21 11 1 170 45 26 16 5   36 7 6   .316 5 .433 6 捕:2 外:102
1947 金星 119 510 457   44 124 17 5 2 157 43 21 15 1   42 10 21   .271 11 .344 4 捕:4 外:119
1948 金星 124 554 505   65 143 24 8 2 189 41 20 11 0   40 9 30   .283 10 .374 1 外:124
1949 中日 137 641 597   83 177 31 4 10 246 59 16 15 2   30 12 32   .296 17 .412 5 外:137
1950 中日 123 520 469   73 135 25 6 7 193 57 28 8 5   38 8 24 8 .288 21 .412 6 外:123
1951 名古屋 113 515 454   83 126 28 5 2 170 39 37 8 6   41 14 16 15 .278 21 .374 4 外113
1952 名古屋 - - -   - - - - - - - - - -   - - - - -   - -  
通算 15年 1417 6303 5614 2 741 1472 235 58 34 1925 462 344 108 62 1 546 78 299 23 .262   .343 70 捕:6 三:7 外:1407

オールスター成績

年度 球団 試合 打席 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 塁打 打点 盗塁 盗塁刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 長打率 失策 ポジション
1951 名古屋 3 4 4   0 0 0 0 0 0 0 0 0 0   0 0 1 0 .000 .000 0 外:3
通算 1年 3 4 4   0 0 0 0 0 0 0 0 0 0   0 0 1 0 .000 .000 0 外:3

監督成績

年度 球団 試合 勝利 敗北 引分 勝率 順位
1944 朝日 35 12 22 1 .353 5
1946 ゴールドスター 105 43 60 2 .417 6
1947 金星 119 41 74 4 .357 8
1952 名古屋 120 75 43 2 .636 3
1953 名古屋 130 70 57 3 551 3
通算 5年 509 241 256 12 .485  

 

新憲法発布記念特別表彰について

1947年5月3日、池田豊・広瀬謙三・若林忠志らと共にプロ野球の功労者として受賞

表彰状には「敗戦後の食糧難の時代に鍬を取って田を耕し、選手の上をしのいだ。また弱小金星を率いて紳士に健闘した。」

とあったそうだ。

このことについて、自身の著書で坪内氏は「戦後初の東西対抗の使用ボールをはじめ野球用具を奈良の疎開先に保管していて、

役立てるなど、プロ最下位には多少お役に立った。こんな私を、日本野球連盟は功労者に仕立ててくれたものの、

さて、タイトルも取っていない選手はほめにくい。そこで私が疎開先で農業のまねごとをし、

ときどき、米やサツマイモを選手に配ってやっていたのを聞き込んで表彰状の文言にしたのだろう。」と語っている。

また、名誉なことだとは思いながらも自身のプレーのことをまったく触れてくれなかったので心からは喜べなかったそうな

引退のきっかけ

1951年。既に37歳になっており、肩は衰えアキレス腱は痛みが続いていた。それでも死に花を咲かせるつもりで新年早々からトレーニングに入った。そのおかげか、13試合連続安打、4月中は打率トップ。前半戦が終わって打率が.325でこの年始まったオールスターにも選ばれた。ところがオールスター前の試合で、併殺を防ぐためのスライディングをした際。左手首をいためてしまい、手首の返しがきかなくなってしまった。さらにアキレス腱炎も再発してしまった。

北海道遠征から戻ってきたある試合、内野ゴロを打って一塁に駆け込みアウトになった。ベンチに戻るとき、スタンドから「坪内も足が遅くなったなあ」というため息交じりの声が聞こえてきた。「足だけがとりえだった俺が、ファンに足でため息をつかれるとは・・・」とひどくショックを受けたそうだ。

シーズンが終了した後の12月20日。東京西銀座の中部日本新聞社内の名古屋球団事務所で、中村三五郎代表に会い引退のあいさつをした。その後、同僚の西沢道夫氏を訪ねると「今年は全試合出場したじゃないの。まだまだやれるよ」と引退を惜しんでくれたが、坪内氏の意思が固いと知ると「寂しいなあ」とポツリともらしたそうだ。ちなみに来季の契約書には「監督兼外野手」とあり、よく分からないままサインをしてしまったとのこと。

 

参考文献:風雪の中の野球半世紀 坪内道則著

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