水原 茂(みずはら しげる) 55-59:水原 円裕

1909.01.19生 1982.03.26没 170cm 64kg 右投右打 香川県高松市出身 高松商業-慶応大-奉天実業団 

甲子園出場 25春(準優勝)・25夏(優勝)・26夏(ベスト4)・27夏(優勝)

所属 34-36・36秋-42.49-50巨人

    50巨人選手兼監督 51-60巨人監督 61-67東映監督 69-71中日監督

背番号 なし(34) 8(35) 19(36-42) 50(49) 30(50-60.61-66.71) 81(67) 68(69-70)

 

初出場 1936.11.05 対名古屋 2番三塁手で先発出場(4打数1安打1打点1三振)

初安打 1936.11.05 対名古屋 二塁打

初本塁打 1937.06.26 対タイガース 投手:若林忠志(1回裏一死無走者)

最終出場 1950

表彰 最優秀選手1回(1942) ベストナイン1回(1940・三塁手) 殿堂入り(1977)

 

野手成績

年度 球団 登録 試合 打席 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 塁打 打点 盗塁 盗刺 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺 打率 出塁率 長打率 OPS
1936秋 巨人 内野 16 66 62   3 14 2 0 0 16 7 1   1   3 0 7   .226 23 .262 .258 0.520
1937春 巨人 内野 56 260 218   32 55 11 2 1 73 18 17   5   33 4 14   .252 20 .361 .335 0.696
1937秋 巨人 内野 48 221 176 1 39 51 10 4 3 78 31 12   5   38 1 7   .290 10 .419 .443 0.862
1938春 巨人 内野 34 149 120   19 24 4 0 0 28 13 5   2   23 4 6   .200 37 .347 .233 0.580
1938秋 巨人 内野 29 110 91   14 22 3 1 2 33 9 2   1   18 0 8   .242   .367 .363 0.730
1939 巨人 内野 96 446 358 1 61 86 13 3 2 111 40 15   4 2 78 3 26   .240 30 .380 .310 0.689
1940 巨人 内野 86 384 332   42 79 9 3 1 97 22 9   6 1 43 2 16   .238 14 .329 .292 0.620
1941 巨人 内野 86 415 340   44 86 11 1 3 108 27 6   1   71 3 13   .253 4 .386 .318 0.704
1942 巨人 内野 65 298 258   32 58 10 2 0 72 16 2 3 2   38 0 8   .225   .324 .279 0.603
1949 巨人 内野 0 - -   - - - - - - - - - -   - - -   -   - -  
1950 巨人 監兼内 7 6 5   1 1 1 0 0 1 1 0 0 0   1 0 1 0 .200   .333 .200 0.533
通算 8年   523 2355 1960 2 287 476 73 16 12 617 184 69 3 27 3 346 17 106 0 .243   .361 .315 0.676

*36-38.41-53の出塁率・OPSは犠飛を含まず

ポジション
年度 球団 登録 試合 投手 捕手 一塁 二塁 三塁 遊撃 外野   失策
1936秋 巨人 内野 16         16       4
1937春 巨人 内野 56         56       14
1937秋 巨人 内野 48         48       19
1938春 巨人 内野 34 1       32       9
1938秋 巨人 内野 29 11       16       3
1939 巨人 内野 96         96       27
1940 巨人 内野 86         85       30
1941 巨人 内野 86         86       25
1942 巨人 内野 65         65       13
1949 巨人 内野 0                 -
1950 巨人 内野 7       2 1       0
通算 8年   523 12     2 501       144

初登板 1938.07.17 対タイガース5回戦 7回から途中登板(2回3安打4失点)

初勝利 1938.09.10 対南海2回戦 完投勝利(9回7安打5奪三振2自責点)

初敗戦 1938.09.17 対金鯱1回戦 先発登板(4回1安打3奪三振3自責点)

最終登板 1938.11.11 対ライオン4回戦 先発登板(6回7安打2奪三振1自責点)

投手成績

年度 球団 試合 完投 交代了 試当初 補回 無点勝 無四球 勝利 敗北 引分 勝率 打者 打数 投球回 安打 本塁打 犠打 犠飛 四球 死球 三振 暴投 ボーク 失点 自責点 防御率
1938春 巨人 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 11 8   2 3 0 0   3 0 1 0 0 4 4 18.00  
1938秋 巨人 11 6 0 5 0 1 0 8 2 0 .800 327 283   82 46 4 5   37 2 44 0 0 25 16 1.76 2
通算 1年 12 6 0 5 0 1 0 8 2 0 .800 338 291   84 49 4 5   40 2 45 0 0 29 20 2.14  

監督成績

年度 球団 試合 勝利 敗北 引分 勝率 順位  
1950 巨人 140 82 54 4 .603 B  
1951 巨人 114 79 29 6 .731 @  
1952 巨人 120 83 37 0 .692 @  
1953 巨人 125 87 37 1 .702 @  
1954 巨人 130 82 47 1 .636 A  
1955 巨人 130 92 37 1 .713 @  
1956 巨人 130 82 44 4 .651 @  
1957 巨人 130 74 53 3 .583 @  
1958 巨人 130 77 52 1 .597 @  
1959 巨人 130 77 48 5 .616 @  
1960 巨人 130 66 61 3 .520 A  
1961 東映 140 83 52 5 .615 A  
1962 東映 133 78 52 3 .600 @  
1963 東映 150 76 71 3 .517 B  
1964 東映 150 78 68 4 .534 B  
1965 東映 140 76 61 3 .555 A  
1966 東映 136 70 60 6 .538 B  
1967 東映 134 65 65 4 .500 B  
1969 中日 130 59 65 6 .476 C  
1970 中日 130 55 70 5 .440 D  
1971 中日 130 65 60 5 .520 A  
通算 21年 2782 1586 1123 73 .585    

経歴

高松商時代は投手として活躍し、第11回(1925)・13回(1927)全国中等学校優勝野球大会で優勝。チームメイトに宮武三郎(阪急)・・井川喜代一(東急助監督)・堀定一(1931年全日本メンバー)がいた。卒業後、慶大に入学し宮武と再びチームメイトとなる。入学後は三塁手に転向。春秋通算で5回優勝を果たし六大学野球のスターとなった。しかし1933年12月3日に麻雀賭博により検挙され、翌日に野球部から除名された。大学時代のチームメイトに宮武の他、伊藤勝三(大東京)・山下実(阪急)・加藤喜作(南海)・水谷則一(大東京他)・平桝敏男(タイガース)などがいる。

31年と34年には全日本に選ばれ、34年の大日本東京野球倶楽部の創設に参加。しかし第二次アメリカ遠征中上層部と揉め、田部武雄と共に退団。その後、1936年11月3日に巨人に復帰し三塁手として活躍し42年には規定打席不足ながらMVP。38年には投手も務め秋季には防御率2位となる。42年9月12日に応召し、戦後シベリアに抑留された。49年7月20日帰国。4日後の7月24日、後楽園球場に行き、巨人対大映戦の試合前、「水原茂、ただいま帰ってまいりました」と球場のファンに報告をした。

50年、選手が三原脩に対し排斥運動を起こしたため、監督に就任。三原は総監督となる。同年現役引退。その後51-53年に3年連続南海を破り日本一それ以降も55年からリーグ5連覇を達成し巨人第二次黄金時代を築く。しかし日本シリーズでは56-58年に三原率いる西鉄ライオンズに三年連続敗北。59年は南海の杉浦の前に4連敗。そして60年、三原率いる大洋に優勝を奪われ、5年連続日本一を逃しその責任をとるため「グラウンドの恥は、グラウンド」と言い残し辞任。

60年12月、東映オーナー大川博に口説かれ、東映監督に就任。当時の東映は過去11年平均5.6位の弱小球団であった。しかし就任一年目にして、首位と1.5ゲーム差の2位にまで押し上げ、翌年には常勝南海をかわして東映を初優勝に導いた。その後もAクラスを維持し、67年退任。在任7年間の間の平均順位は2.4位。

69年からは中日の監督に就任。71年にはチームを二位まで上昇させ、優勝への土台を作り退団。通算1586勝は歴代4位。

68年と72年以降は東京放送(現・TBS)で解説者を務めた。82年3月26日肝不全のため死去。葬儀は黒沢俊夫に次ぐ二人目の巨人の球団葬となった。

エピソード

大学在学中の33年10月22日に行われた早慶戦の9回、前の回までに審判の判定をめぐるトラブルが続き両選手・応援団が興奮状態の中、水原が守る三塁に向かって三塁側応援席の早大応援団から様々なゴミと共にリンゴの芯が投げ込まれた。これを水原が三塁側ベンチにバックトスの要領で投げ込み早大側が激怒。慶大がこの裏にサヨナラ勝ちを決めた直後、早大応援団が慶大ベンチ・応援席になだれ込む大乱闘になった。これが東京六大学野球二大不祥事のひとつ「リンゴ事件」である。(もうひとつは1931年に起きた八十川ボーク事件。この事件の時も三塁手として出場している)

34年の日米野球第六回戦で水原は先発を務めた。初回はマックネーア・ゲリンジャー・ベーブルースを三者凡退にする好投。しかし三回二死、第二打席のベーブルースの目を見た瞬間、水原は小便を漏らしそうな気分になった。その直後の第一球ベーブルースの一番得意なコースに投げてしまい、見事本塁打を打たれてしまった。この話をプロデビュー初日、金田正一に第一打席で見事に三振を頂戴してきた長嶋茂雄に第二打席で気分転換してもらうためにした。ところが長嶋茂雄、第二打席は空振り三振、第三打席は空振り三振、第四打席も見事な空振り三振。試合終了後、凄まじい顔になってしまった長島にロッカーで唐突に自分の盲腸の話をし始めた。その話とは水原の大学時代のお話。1928年9月13日の慶大対イリノス大戦。6回に三塁の守備につこうと思ったとき、水原はその場にいきなりぶっ倒れてしまった。前日からのあった腹痛が激痛に変わってしまったのだ。勿論病院に運ばれた。そこの先生である蔵木博士に腹をぐいぐい押される。しかし水原は痛いとは言わない。なぜなら二日後の試合にはるばる香川から父親・親類・ご近所の方が観戦しに来る。もし手術なんて事になってしまえば試合には間違えなく出れないのだ。しかし蔵木先生、無常にも「手術!野球はごまかせても、私はごまかせない」と言い放ち、見事水原を手術台に載せることに成功。水原無念。水原が盲腸の手術をしたという情報が流れ、ライバル早大が「手術は9月13日。退院は20日。静養を三週間とすると練習開始は10月中旬、そうなると10月20日からの早慶戦には出場できない」と大喜び。ところが当日の早慶戦。水原は先発投手として登場。翌日の試合も救援登板。二試合合計4打数2安打1二塁打。結果慶大が二連勝した。入院一週間までは早大の計算通りであったが静養はわずか一週間。早大無念。 この話で水原は手術に比べれば三振なんか痛くも痒くもないじゃないか。と伝えたかったらしい。

三原脩とは、中学時代からのライバル。大学時代には1931年の早慶戦で投手の時、早大の選手だった三原にホームスチールを決められた。また56-58年には三原率いる西鉄ライオンズと三年連続日本一を争い、「巌流島の決闘」とまで言われるほど注目を集めたが結果はいずれも三原の勝利で終わった。58年の日本シリーズは1試合目から3連勝をし、あと一歩のところまで追い詰めたが、西鉄稲尾の好投などもあり4連敗を喫し日本一を逃した。この年の日本シリーズはプロ野球史上に残る名勝負と称されている。

その後、60年に三原が大洋の監督に就任し、再び「巌流島の決闘」が始まった。このシーズンは序盤こそ首位に立っていたが中盤に勢いが落ち一時、4位まで順位が落ちた。しかし終盤に15戦で12勝を上げ首位大洋を猛追し1.5ゲーム差まで追い詰めた。しかしその直後の大洋戦で痛恨の二連敗を喫し10月2日、巨人が敗れ大洋の優勝が決定。その試合の終了後、ロッカールームに入って取材してきたカメラマンを殴ってしまい謹慎処分を受けた。その後の11月19日に辞表を提出した。

中日監督最終年の71年、三原がヤクルト監督に就任し、三度三原と対決することになった。ヤクルトとの対戦成績は12勝12敗2分。水原の監督最終日である10月8日の第一試合も三原率いるヤクルトとの対戦となり、5-2で水原が勝利した。

大学在学中にはリンゴを投げつけられたが、監督時代には蛇を投げつけられた。1956年7月31日の阪神戦の6回、6番後藤次男が打った三塁ゴロで三塁走者田宮謙次郎がホームに突っ込んできた。捕手の藤尾茂が三塁からの送球を捕球し田宮にタッチをしたが主審小柴重吉は「セーフ」の判定。これに対し三塁側ベンチから水原が登場、小柴のメガネをもぎとり、猛抗議を開始した。「この老眼鏡、度があってないのではないか」などと文句をぶつけてるとき、阪神ファンがアオダイショウを水原めがけて放り投げてきたそうだ。このヘビは当時甲子園球場の外壁に生えていた蔦の中にいたヘビであるらしい。ちなみにこの後、水原はお詫びにドイツ製のメガネを小柴に贈っている。

51年の日本シリーズ前、水原は別所(21勝9敗・防御率2.45)と藤本(15勝7敗・防御率3.13)のどちらかにするか迷っていた。成績で言うと別所だが前年の日本シリーズの第一戦で大ベテラン42歳の若林忠志(この年わずか4勝3敗)が延長12回を投げきり勝利投手となった。前年の例に従うと年上の藤本が良いことになる。そして相手は別所が3年前まで所属していた南海ホークス。ファンから怒涛のヤジが飛んでくる可能性が非常に高い。以上により水原は藤本を先発にした。しかしここで水原は困ってしまった。21勝を上げ第一戦で投げる気満々の別所にどうやってこのことを伝えるべきか、と。ここで水原は別所の部屋に向かい「監督の立場に立つと、第一戦より第二戦に勝ちたい。つまり勝ったその足で後楽園に戻りたい。そすれば球団もファンも、みんな気分がいい。そればかりではない第一戦の藤本が沈没しても第二戦に別所がいるからと、監督の俺は平気でいられる。前座は奇数試合、真打ちは偶数試合、これが日本シリーズにおける水原式ローテーションだ。どうだ別所」と言った。そうすると別所は感動の嵐。水原に「水原さん、ぼくを第二戦に使ってください」と叫んだそうだ。その後すぐ隣の藤本の部屋を訪れ「おい藤本、勝負は先に殴ったほうが勝つ。先に殴れる実力者は藤本、お前しかいない。明日の第一戦はお前にまかす」と言い放つ。二人をいい気分にさせた。この結果藤本は5-0、別所も7-0で完封勝利を上げ、結果4-1で巨人は初の日本一に輝いた。

62年の日本シリーズ。第一戦、第二戦共に阪神に敗戦。無念の水原が甲子園球場を出ようとしたとき、中年の阪神ファンが水原をやじった。「水原さんよ、タイガースに勝つコツ教えてやろうか。虎退治の加藤清正公の神社でも探して拝みに行くんだな」と。これを水原は本気にした。「神社ではないが、東京・白金台にある覚林寺が加藤清正を祀ってある寺だと聞いてね。第三戦の前夜。それも真夜中に一人で出かけたんだ。そうしたら第三戦が引き分け、あとは四連勝で逆転勝ちよ」とご本人談。見事東映は日本一に輝いた。

 

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