中等学校野球史(明治編)

1872年に野球が伝来してから、明治年間の中等学校での野球の広がりについて

 1-1中等学校(中学)に野球がとどくまで

 野球というものが生まれたのは1845年のアメリカと言われている。それから数十年たち1872年、ウィルソンというアメリカ人教師が東京大学の前身の一つである開成学校に赴任してきて学生に野球を教えた。これが日本に伝わった始まりだといわれている。当時の野球はソフトボールに似ていて、投手は下手投げ。打者はストライクゾーンが高、中、低の三つに分かれており、高は目より胸、中は胸から腰、下は腰から膝であった。打者はこのなかから好きなコースを選ぶことができ、当時は投手の後ろにいた審判に知らせ、審判がこれを大声で場内に告げてようやく投球というものだった。要求通りのコースに来なければボール。4球ではなく9球で今でいうフォアボール扱いのナインボール。捕手はワンバウンドしてからキャッチをしており、フライもワンバウンドで捕球すればアウトとなった。グラブやミットはこのころはなく皆素手でのプレーであった。

 開成学校以外にも平岡凞(日本野球の祖と言われている)が新橋アスレチッククラブを1878年に創部。工部大学(東大の前身)、青山学院(1883年創部)、明治学院(1885年創部)、慶應義塾(1888年創部)と少しずつ野球チームも増えていった。そして開成学校が合併・改称した東京大学と工部大学がさらに合併をし、その予科として東京大学予備門が生まれ、これが第一高等中学校(通称一高)である。1886年にこの一高に野球部が生まれ、野球は急速に広まっていった。当時の一高含む旧制高校の生徒は当該年齢人口のわずか0.4%。エリート集団であった。一高生の中には当時最先端であった新橋アスレチッククラブで技術やルールを吸収するものもあり、一高野球部は急速に成長していき、早大・慶大両校に相次いで敗れる1904年まで、野球界の頂点であった。この一高などに進学した者が、教師などとして地方に赴任し、全国各地に野球が伝えられた。東京の中学では、一高の近くにあった郁文館や、大学部もあった青山学院学習院独逸協会(現・独協)などに野球部ができ始めた。
 地方の中学では、横浜や神戸の在留外国人の影響を受け、横浜商(1983年春夏準優勝・1897年創部)、神戸一中(現・神戸、1919年夏優勝・1896年創部)、関西学院(1920年夏、1928年春優勝・1897年創部)など1890年代後半になって各地で次々に創部されていった。
 神戸では1892年に、兵庫県尋常師範学校生徒の阿部常次と杉野清造が野球の原書を取り寄せて始めたのが最初だとされている。ボールとバットは東京の美満津屋というところから買い、捕手のマスクとミットは剣道の面と小手で代用した。しかし、見えづらく、やりづらいので結局素面に素手で行ったという。神戸一中では赤と白の帽子をかぶって2組に分かれ、交互に棒きれで球を打って遊んでいた。時には先生が一人で球を打ち、生徒が拾うということもあった。
 横浜商は1896年、一高が横浜の外国人チームと試合に挑み、大勝したときに、同校に招いて祝勝会を開いた。その際に一高よりボールやバットが贈られ、これが野球部誕生のきっかけとなった。
 大阪の北野中(現・北野、1949春優勝・1893年創部)は1891年11月熊本謙二郎という英語教諭が着任したのがきっかけだった。熊本は一高出身で捕手として野球に親しんでいた。それより数年前にも玉井瑳一郎という教諭が丸い棍棒とゴムまりを持ってきて、一人がまりを投げ、一人が打ち返すという遊びを教えたという話も残っている。和歌山中(現・桐蔭、優勝3回・1897年創部)は北野中と同様に教諭、静岡中(現・静岡高、1926夏優勝・1896年創部)は東京からの転校生がきっかけだった。


 1-2とどきはじめ
 野球部ができ始めのころは現在のような正式に学校の体育部の一つとして認められたものではなく、野球好きが集まってチームを作っていた。専用のグラウンドがあるわけではなく、校庭や空き地を利用して練習をしていた。このころになると捕手がミットをつけたり、剣道の面をマスク代わりにかぶり始めている。
 和歌山中では紺の脚絆や足袋跣、裸足で走り回り、教師の打った打球を競って拾うというもので、捕手がミットを付けた他は皆素手であった。東京で大学野球が活発になるに連れ野球をやる生徒も増えていったが、運動部として認められるまでには至らず、各クラスにチームを作って校内で試合をしている程度であった。
 北野中では1893年2月11日に校内で職員と生徒による紅白戦の記録が残っている。会場は芝川という人の別荘の芝生であった。
 神戸一中では開校年である1896年の6月にはすでに野球を始めるものがいた。当時の道具は定価7銭の柔らかい球。バットは自作で建設中の講堂に落ちていた120センチほどの杉の丸太を持ち帰り、出刃包丁とかんなで削って作った。ベースはなく、古縄を輪状において、ベースとした。

 しばらくすると、各地で対校試合が始まった。北野中では1893年4月3日に大阪最初の学生野球試合と記録されている試合を同志社ベースボールクラブと行った。当時の記事に「同志社『クラブ』員は阿部某を大将として押し寄せたり。我軍は熊本を参謀とし屈指の士之が指揮に従い、晴の勝負に、我団体の名誉をば汚さじものと、一同必死になりて戦いしかば、五六合まで勝敗何れも見分け難かりしも…」と軍記風に書かれている。試合は7点差で負けてしまったそうだが正確なスコアは残っていない。熊本教諭は捕手を務め、「窮境に立つやマスク、ミットを投げ捨て、素面素手になって挽回の意気を示した」という。投手も教員の広田竹次郎(体操担当)、他は生徒であった。
 翌1894年1月28日には北野中2度目の対外試合となる大阪商(現・大商学園高)戦が城東練兵場で行われた。結果は25対16で勝利。この試合は「野次馬達は総勢200余人」「一点鐘は響けり、白軍はフイヒルドに現れたり。」「第一バッターの打撃の球は不幸にも第二ベースに飛び、ファーストベースの選手もアウトになれり。第二士は辛うじてサクセスしたりも…」といった具合に記事に書かれている。大阪商との対戦は1896年までに4度を数えている。当時、野球という言葉はまだ定着しておらず、北野中では「底球」であった。野球という言葉ができたのは1894年。一高生の二塁手であった中馬庚が命名した。これ以後、1897年に『野球』(著者は中馬庚本人)、1901年に『野球年報』(美満津屋)などの雑誌の名称にも使われ一気に広まっていった。

 この当時はまだ中学校数も多くなく、北野中のように校内試合や近隣の特定の学校と行う対校試合がもっぱらであった。
 しかし、この対校試合は一部の学校では「責任試合」という、敗れては復讐戦、勝っては挑戦を受けという母校を代表しての対抗競技に発展していった。神戸では1896年に行われた兵庫師範対関西学院を導火線に市内で次々に責任試合が行われた。全校生徒の前で試合を行い、校内誌や新聞などが試合を「戦い」、グラウンドは戦場と考え「仕合」という表現を使った。選手は「戦士」であり、何が何でも勝たねばならぬという勝利至上主義を生んだ。
 1891年創部の水戸中(現・水戸一高)は1896年10月17日に宇都宮へ遠征し、宇都宮中(現・宇都宮)との試合を行った。これは関東初の中学同士の試合と言われている。ちなみに初の中学同士の野球野球試合は1889年秋田中と秋田師範との間で行われている。この試合では21対15で水戸中が勝利している。翌1897年にも試合を行い、6対5で水戸中の連勝。さらに翌年の第三戦は6対6で引き分けだった。当時の試合は学校関係者や市民が過熱することがあり、宇都宮中が一戦目に敗れたときは当時の校長が「この恨、誓って報復せざるべからず」と全生徒を講堂に集めて話をしたほど。水戸で行われた三戦目のときには、宇都宮中は一回ごとに経過を電報で市民に知らせ、その発表を見ようとして県庁前の郵便局に市民の山ができた。
 関東でも、神戸と同じように対抗戦を責任試合ととらえていたようである。

 1892年には全国でわずか62校しかなく、一つも中学校がない県も存在していたが1898年に出された中学校令により国が積極的な振興を行い、1905年には271校にまで激増した。このころ開校した学校に
 東北(1894年)
 広陵(1896年)
 松商学園(1898年)
 高知商(1898年)
 広島商(1899年)
 日大三(1899年)
 高知(1899年)
 高松商(1900年)
 早稲田実(1901年)
 今治西(1901年)
 松山商(1902年)
 県岐阜商(1904年)
 沖縄水産(1904年)
 仙台育英(1905年)
 などがあり、公立・私立問わず古今の強豪校が多く開校している。ただ、このうちのすべてが初めから中学校であったわけではない。沖縄水産は小学校内に村立水産補習学校として、広陵は究数学院に中等科を設置して、などと現在と違い様々な学校があったため当時の名称や位置づけはさまざまである。
 このように19世紀終わりごろから各地に多くの学校ができ始めると、対校試合から地域大会へと規模が広がっていった。旧制二高や旧制三高のような上級学校が主催するもの、県や雑誌・運動具店が主催するものなど1900年代に入ると次々に大会が生まれた。当時の大会は以下のとおりである。

 旧制高校主催の大会
 二高 1911年 岩手・宮城・福島
 三高 1900年 関西・愛知・岐阜・四国
 四高 1911年 北陸・京都・愛知
 五高 1902年 熊本・佐賀・福岡
 六高 1907年 岡山・広島・四国
 広島高等師範 1907年 近県大会
 山口高商 近県大会
 福岡明治専門学校 九州

 雑誌社主催の大会
 武侠世界 1910年 東京

 運動具店主催の大会
 美津濃 1913年 関西

 県・その他
 秋田県 1899年
 新潟県 1900年
 茨城県 1903年
 愛媛県 1901年
 東海五県連合 1901年 愛知 岐阜・三重・静岡・神奈川
 連合大会   1901年 広島・山口
 山陰     1906年 島根・鳥取

 この中で一番規模が大きかったのが三高が主催の関西連合大会だった。第2回大会では18校の出場があった。この大会は今のようなトーナメント方式ではなく、各チームが一回他校と試合を行うというものだった。
 当時の強豪チームは
 愛知一中(現・旭丘、1917年夏優勝・1893年創部。1897年から1909年まで108回試合をして78勝22敗8引分け。慶応大や外人チームにも勝っており、中学チームに敗れたのはこの13年間で14敗。)
 京都二中(現・鳥羽、1915年夏優勝・1901年創部)
 済々黌(1958年春優勝・1900年創部。当時、五高主催の大会で5連覇)
 早稲田実(1957年春、2006夏優勝・1905年創部。武侠世界主催の東京府下中等野球大会で2回優勝)
 慶応普通部(現・慶応、1916年夏優勝・1896年創部。武侠世界主催の東京府下中等野球大会で優勝)
 早稲田中(現早稲田、1909年創部。武侠世界主催の東京府下中等野球大会で優勝)
 横浜商(1910年、早大を破る)
 水戸中
 盛岡中(現・盛岡一、二高大会連覇)
 などである。これらの学校は各地区の大会に招待されたり、あるいは遠くまで遠征に出かけたりした。
 慶応普通部は1908年春に浜松、京都、神戸に転戦。横浜商も同じころ関西へ遠征している。
 京都二中は1911年に東京まで遠征し、荏原中、麻生中、早稲田中、成城中を破り、青山学院、横浜商に敗れた。帰りに寄った愛知では強豪愛知一中と引き分けた。
 島根の松江中(現・松江北、1893年創部)は1902年、1904年、1906年と3度近畿へ遠征した。このころは車は普及しておらず、鉄道も山陰から近畿まで届いていなかった。つまり歩いて中国山脈を突破しての遠征であった。


 1.3 野球害毒論
 1911年8月29日、東京朝日新聞(現・朝日新聞、当時は東日本で東京朝日新聞、西日本で大阪朝日新聞と新聞名を変えていた)が「野球と其害毒」という連載を始めた。当時一高校長だった新渡戸稲造、学習院院長の乃木希典などが野球が与える悪影響を説くもので、9月19日まで実に22回も続く長期連載であった。主な主張は以下の通りである。

 新渡戸稲造(一高校長)
 相手をペテンにかけようとする。塁を盗もうなど目を四方八方に目配りしてすきをうかがう、巾着きり(スリ)のようなスポーツである。

 川田正徴(府立一中校長)
「時間の浪費」「疲労などによって勉学が怠慢になる」「慰労会などで牛肉店・西洋料理店などへ行き堕落する」「右手で投げ右手に力を入れて打つので右手にのみ発達する」

 中村安太郎(静岡中校長)
 長所もあるが問題点もある。
 1.時間を浪費する。
 2.揃いのユニホームやグラブを使い虚飾に流れる。
 3.空腹とか脇からビールや氷水などをがぶ飲みし品行面、衛生面に問題がある。
 4.野球熱心のあまり学ますます劣等になる。

 乃木希典(学習院院長)
 長時間係弊害を伴い、必要な運動とは認めない。

 他にも
「勝たねばならない責任感が日夜選手の脳を圧迫し頭に影響する」(東大整形外科医局長)
「日本の学校制度はドイツ流であるが、野球は米国である。日本やドイツは知育・徳育・体育を規則正しく行うが米国は自由だ。正科以外の運動もやり学科試験も及第することは難事で、良学生にして良選手は万人に一人、大天災でなければできぬ」(文部省普通学務局長)
「野卑不遜で学生の気品、学術に多大の悪影響」(富田林中学校長)
 と医者に役人に各方面からの非難が紙面に踊った。
 これに対し、東京日日新聞(現・毎日新聞)にて野球関係者が大反論を行なった。

 押川春浪(武侠世界主筆・冒険小説家)
(新渡戸稲造に対し)敵の虚をつくのが巾着きりならば、柔道、蹴球(サッカー)、庭球(テニス)全て同じではないか。競技を研究することなく非難する似非学者。

 安部磯雄(早大教授)
 野球が脳に響くなら脳天を打つ撃剣(剣道)はどうなる。


 押川らは読売新聞にも反論を載せた上、9月16日に「野球問題大演説会」を日本青年会館で開いた。早大の投手、河野安通志が両腕を見せ、腕の太さが変わらないことを訴えたり、安部が野球の門外漢の的外れな非難は、まったく気にする必要はないと言い放ったりと熱弁を振るい、場内は異様な雰囲気に包まれた。
 9月20日、読売新聞がこの演説会の模様を8ページに渡り紹介し、東京朝日新聞は同じ日に中学校98校へのアンケート結果を掲載した。
 弊害は利よりさらに大・・・64校
 害あり利なし・・・・・・・9校
 利害ともにあり・・・・・・11校
 利害を認めず・・・・・・・3校
 利あり・・・・・・・・・・9校
 有害の根拠として
「多大な時間と場所を要する」
「熱中のため学業不信に直結」
「粗暴、虚栄、酒食に浸り品性劣悪」
「身体発育に不自然」
 などがあった。
 最後に野球の弊害は明らかで「野球擁護論者も(中略)弊害を絶ち、健全な発達をはかれば天下の幸い」と書いて一ヶ月に渡る連載を終わらせた。
 しかし、怒りが収まらない押川は9月23日に東京日日新聞に「朝日新聞とその害毒」という記事を掲載。さらに同日再び「野球問題演説会」を開き、その会で阿武天風(冒険小説家)は「男らしく辱めを加えた選手の膝下にひざまずき謝罪せよ」と呼びかけて、朝日新聞の不買決議を行なった。
 これに対し東京朝日新聞は「野球をもって生徒吸収策とする学校屋、野球を食い物とする雑誌記者、野球芸人、野球野次馬は本社の記事に狼狽して、死に物狂いに防御策を講じ」と応じた。さらに慶大が米国艦船のチームと行なった試合を「慶応は花形役者出場せず、観覧料を安くし見事満員」「八百長見事千秋楽となる」とものすごい文句で報じた。
 この新聞社、教育者、野球関係者を巻き込んだ大論争は世間に野球というものを広く周知する結果になった。大阪朝日新聞が全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)を開催するのはこの4年後である。

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